聖乙女(リル・ファーレ)の叙情詩~はじまりの詩~
2
前を歩いていたカイが急に立ち止まったので、リュティアは彼の背中に鼻をぶつけた。
「カイ? どうかしましたか?」
急に山林が途切れていることに気づいた次の瞬間、リュティアは目の前の光景に我が目を疑った。
広大とまではいかずとも十分に広さのある牧草地でのんびりと牛たちが草をはみ、ヤギたちが身を寄せ合って昼寝をしている。その向こうには粗末ながら堂々としたたたずまいの石積みの小屋がふたつ並び、さらにその向こうの崖側はよく耕された畑になっているようだった。
嵐のような激しさと厳しさに満ち満ちたアタナディールの大自然の中にありながら、それはまるで別世界のようなのどかな風景だった。
「みつけた」
「まさか、ここがアクス様の!?」
「間違いない!」
二人はわっと、手を取り合って喜んだ。
カイはできる限り自分の身なりを整えると、リュティアの服の泥を払い、外套のフードを深く下ろして顔が見えないようにした。
二人は毛づやの良い牛たちのすぐそばを通り抜けるかたちで石積みの小屋の前に立った。カイは迷いなく分厚い木製の扉をノックした。
「すみません」
すると間もなく扉が開き、中から迫力のある大男が現れた。褐色の肌の上、獲物を狙う獅子のような峻烈さをたたえた赤茶色の瞳が鋭い視線で睨みつけてくる。無造作に伸ばした燃えるような赤毛と蓄えた赤褐色の髭が荒々しい。褐色に、赤―リュティアは彼がその身に備える色に驚いた。それはエルラシディア大陸の南方にあるという伝説の島国、ピティランドの人々が備えているといわれる色だった。
「湖とガラスの国プリラヴィツェの英雄、天下無双の斧使いのアクス様ですね。私たちは二か月前、フローテュリア王国より逃亡してきました。にわかには信じられないかもしれませんが、こちらにいらっしゃるのが、第一王女リュティア・ティファリス・フローラル様です。私は護衛官のカイと申します」
リュティアはフードを下ろしたまま、―挨拶の時に顔を見せないことは不本意ではあったが、カイにきつく言われたので―軽く会釈した。
二人の身分を聞いても、赤毛の男アクスはみじんも驚きを見せなかった。
それは二人に、さすが英雄アクスと思わせる堂々とした態度だった。
「それで、フローテュリアの王女様が私に何の用だ」
それは地の底から響いてくるような低音の、いかにもこの男に似合う猛々しさを秘めた声だった。その声の調子がひどく不機嫌なものに聞こえて、二人は内心首を傾げた。
眉をひそめたアクスのその表情に、隣のカイが怯んだのがわかった。
やや声の調子を高くして、カイは返答する。
「どうか、隣国ヴァルラムまで、旅の護衛をお願いしたいのです」
「なんだと…?」
心底から嫌悪の表情を浮かべる彼の様子に、カイは焦ったようだった。
「もちろん、後払いにはなりますが、報酬はお支払いします」
「報酬、ふん」
吐き捨てるようなセリフに二人は耳を疑う。この人物が本当にあの英雄アクスなのか?
「金銭で満足なさらないのであれば、私たちにはこの剣をお譲りする心づもりもあります!」
カイは腰に下げていた剣を鞘ごと取り外すと、恭しくアクスの前に捧げ持った。リュティアは思わずカイの方を振り返った。カイの横顔は真剣そのもので、リュティアはカイが本気でこの剣を手放すつもりなのだと悟った。カイがフローテュリアから何らかの大事な使命を帯びて持ち出し、いつも抱いて眠り守ってきた宝剣を。
アクスも思わずと言った様子でその剣に見入った。それほどに美しい剣だった。黄金の鞘に銀で施された緻密な浮き彫りは咲き誇る花々を描いたもので、光神が両腕を広げた意匠の柄の中央には大粒の見事なエメラルドが輝いている。カイがそっと半分だけ刀身を鞘から解き放つと、それは黄金の麦の穂のうねりのように陽光を照り返して輝いた。紛れもない宝剣であった。それは誰の目から見ても護衛に対する報奨としては多すぎるくらいの代物であった。
「今までは身を守るたったひとつのものであれば、手放すことも躊躇いたしましたが、あなたが護衛についてくださるのなら何を惜しみましょう。どうか受け取ってください」
カイが深くおじぎをしたので、リュティアも彼に倣(なら)った。
確かにこの剣はフローテュリアの秘宝ではあるが、今の二人には護衛の方が必要と言えた。カイがそう決めたのならリュティアに異論はなかった。
しかし。
「いらん。断る」
アクスの返答はにべもないものだった。
二人は頭を下げたまま瞠目した。
「私はもう戦わん。施すものも何もない。王女だなどと、よくも大嘘をつくものだ。ふん、それで騙そうという魂胆なのだろうが、私は騙されんぞ。さっさとここから立ち去るがいい」
「お父さん、そんな言い方―」
部屋の奥から若い娘の咎めるような声が響いたが、そのせりふが最後まで終わる前にぴしゃりと扉は閉められてしまった。
「カイ? どうかしましたか?」
急に山林が途切れていることに気づいた次の瞬間、リュティアは目の前の光景に我が目を疑った。
広大とまではいかずとも十分に広さのある牧草地でのんびりと牛たちが草をはみ、ヤギたちが身を寄せ合って昼寝をしている。その向こうには粗末ながら堂々としたたたずまいの石積みの小屋がふたつ並び、さらにその向こうの崖側はよく耕された畑になっているようだった。
嵐のような激しさと厳しさに満ち満ちたアタナディールの大自然の中にありながら、それはまるで別世界のようなのどかな風景だった。
「みつけた」
「まさか、ここがアクス様の!?」
「間違いない!」
二人はわっと、手を取り合って喜んだ。
カイはできる限り自分の身なりを整えると、リュティアの服の泥を払い、外套のフードを深く下ろして顔が見えないようにした。
二人は毛づやの良い牛たちのすぐそばを通り抜けるかたちで石積みの小屋の前に立った。カイは迷いなく分厚い木製の扉をノックした。
「すみません」
すると間もなく扉が開き、中から迫力のある大男が現れた。褐色の肌の上、獲物を狙う獅子のような峻烈さをたたえた赤茶色の瞳が鋭い視線で睨みつけてくる。無造作に伸ばした燃えるような赤毛と蓄えた赤褐色の髭が荒々しい。褐色に、赤―リュティアは彼がその身に備える色に驚いた。それはエルラシディア大陸の南方にあるという伝説の島国、ピティランドの人々が備えているといわれる色だった。
「湖とガラスの国プリラヴィツェの英雄、天下無双の斧使いのアクス様ですね。私たちは二か月前、フローテュリア王国より逃亡してきました。にわかには信じられないかもしれませんが、こちらにいらっしゃるのが、第一王女リュティア・ティファリス・フローラル様です。私は護衛官のカイと申します」
リュティアはフードを下ろしたまま、―挨拶の時に顔を見せないことは不本意ではあったが、カイにきつく言われたので―軽く会釈した。
二人の身分を聞いても、赤毛の男アクスはみじんも驚きを見せなかった。
それは二人に、さすが英雄アクスと思わせる堂々とした態度だった。
「それで、フローテュリアの王女様が私に何の用だ」
それは地の底から響いてくるような低音の、いかにもこの男に似合う猛々しさを秘めた声だった。その声の調子がひどく不機嫌なものに聞こえて、二人は内心首を傾げた。
眉をひそめたアクスのその表情に、隣のカイが怯んだのがわかった。
やや声の調子を高くして、カイは返答する。
「どうか、隣国ヴァルラムまで、旅の護衛をお願いしたいのです」
「なんだと…?」
心底から嫌悪の表情を浮かべる彼の様子に、カイは焦ったようだった。
「もちろん、後払いにはなりますが、報酬はお支払いします」
「報酬、ふん」
吐き捨てるようなセリフに二人は耳を疑う。この人物が本当にあの英雄アクスなのか?
「金銭で満足なさらないのであれば、私たちにはこの剣をお譲りする心づもりもあります!」
カイは腰に下げていた剣を鞘ごと取り外すと、恭しくアクスの前に捧げ持った。リュティアは思わずカイの方を振り返った。カイの横顔は真剣そのもので、リュティアはカイが本気でこの剣を手放すつもりなのだと悟った。カイがフローテュリアから何らかの大事な使命を帯びて持ち出し、いつも抱いて眠り守ってきた宝剣を。
アクスも思わずと言った様子でその剣に見入った。それほどに美しい剣だった。黄金の鞘に銀で施された緻密な浮き彫りは咲き誇る花々を描いたもので、光神が両腕を広げた意匠の柄の中央には大粒の見事なエメラルドが輝いている。カイがそっと半分だけ刀身を鞘から解き放つと、それは黄金の麦の穂のうねりのように陽光を照り返して輝いた。紛れもない宝剣であった。それは誰の目から見ても護衛に対する報奨としては多すぎるくらいの代物であった。
「今までは身を守るたったひとつのものであれば、手放すことも躊躇いたしましたが、あなたが護衛についてくださるのなら何を惜しみましょう。どうか受け取ってください」
カイが深くおじぎをしたので、リュティアも彼に倣(なら)った。
確かにこの剣はフローテュリアの秘宝ではあるが、今の二人には護衛の方が必要と言えた。カイがそう決めたのならリュティアに異論はなかった。
しかし。
「いらん。断る」
アクスの返答はにべもないものだった。
二人は頭を下げたまま瞠目した。
「私はもう戦わん。施すものも何もない。王女だなどと、よくも大嘘をつくものだ。ふん、それで騙そうという魂胆なのだろうが、私は騙されんぞ。さっさとここから立ち去るがいい」
「お父さん、そんな言い方―」
部屋の奥から若い娘の咎めるような声が響いたが、そのせりふが最後まで終わる前にぴしゃりと扉は閉められてしまった。