聖乙女(リル・ファーレ)の叙情詩~はじまりの詩~
そのびりびりと肌を震わすようなあまりにも邪悪で強大な気配にカイは恐怖のあまり腰を抜かしかけたが、かろうじて残った精神力でリュティアの手を引いた。―逃げるのだ。戦って勝てる相手ではないことは一目瞭然だった。

木々の間を走りだした二人はしかし、地竜の一歩で追いつかれた。頭の角で足元を払われ、二人は下生えに頭から転倒した。

―逃げられない―

二人は冷たい恐怖とともに悟った。

ならばと、カイが抜刀し捨て身の覚悟で地竜にぶつかっていった。しかし剣が地竜の体に届く前に、闇に鋭い弧を描く前足の爪によってそれは弾き飛ばされ宙を舞った。

地竜の尻尾の一撃がうなりをあげてカイに襲いかかった。

カイは吹き飛ばされ、堅い木の幹に激しく打ちつけられた衝撃で血を吐いた。

「カイ!!」

雨よ、降れ!

念じたが、この魔月は今までの魔月とは格が違うのがリュティアにもわかった。雨でまける相手ではないかもしれない。それでも今のリュティアにすがれるものは、もうそれしかなかったのだ。

逃げられない。

最強の戦士アクスもいない。

こんな時に限って、雨も降ってくれない。

どうすればいい!

リュティアは倒れたカイに駆け寄ると、必死で両腕を広げてカイの前に立ちはだかった。

死を予感しリュティアは青ざめて震えた。怖くて怖くてたまらなかった。

―魔月の狙いは自分だ。カイ、せめてカイだけでも助けられれば…

固く目を閉じ、地竜がリュティアを殺すことで満足し去ってくれればいいと願った。この猛り狂う獣の前でそれは絶望的な願いだった。

空気がぶわりと動き、地竜が鋭い爪を振り上げたのがわかった。空を切り裂くその一撃で自分は死ぬだろう。その瞬間を待ってリュティアが身を固くした―

―その時だった。

風を割ってシャキンと刃の鳴る音が耳を打った。

―グォォォォォォォッ!!

地竜が地の底から響くような咆哮をあげた。それは悲鳴のように聞こえてリュティアは思わず瞼を上げた。
そこに信じられない光景を目にした。

地竜の太い前足が鋭い爪ごとごとりと草むらに転がり落ちている。驚き見開くリュティアの瞳に鋭い銀の剣の切っ先が映り、次いで翻る漆黒のマント、闇を塗り込めたような揺れる漆黒の髪の後ろ姿が映る―

―誰…?
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