聖乙女(リル・ファーレ)の叙情詩~はじまりの詩~
「今唄ったのが、星麗の騎士の“はじまりの詩”です。素敵でしょう? リィラ、星麗の騎士は、森に住む古の種族星麗の騎士が、追っ手からお姫様を救って恋に落ちる素敵な物語で…」

「知っています」

リィラは逆さまにぶら下がったまま、黒い切り下げ髪を風に散らして笑った。

「しかし姫君には婚約者が、騎士には森を離れられない理由があり、甘く切ない恋が始まる――でしょう?」

「そうです。特に、そっと名前を明かすところが素敵なんです…リィラも読めばきっと夢中になります」

「いいえ、リュティア様。私は体を動かすことの方が大好きなの! いつか女でも騎士になれるヴァルラムに行って女騎士になったら、リュティア様の親衛隊になります。兄様よりよっぽど頼りになるわ」

噂をすれば影というが、丁度その時、丘を駆けあがってくる人影が見えた。

すっと背筋の伸びた長身の立ち姿、後頭部で高く結い上げた黒髪が絹糸のように背中でさらさらと揺れる様は、遠目からでも美形とわかる青年だった。

リィラの兄で、リュティアの護衛官を務めるカイだ。

リュティアは花が開くように顔をほころばせた。

カイの、陽に透かすと燦然と茶色に輝く黒髪も、笑うと優しげに崩れる涼しげな目元も、彼のかもしだす優雅に空に咲く昼の月のごとき雰囲気も、その性格も、幼い頃からなじんだ彼のすべてが大好きだったからだ。

「カイ!」

「リュー! おはよう!」

カイはリュティアの願いを受けて、人のいないところでは“リュー”と気安く呼んでくれる。

「おはようございます。今日は確かヴァルラムに旅立つグラヴァウン卿とフリード卿を見送るのでは?」

グラヴァウンは次期陸軍総帥、フリードは次期宰相と目される人物で、リュティアの知る狭い世界の中の数少ない登場人物だ。リュティアは直接会ったことは無いが、カイの話でいつも彼らのことは聞いていた。

グラヴァウンは筋肉マニアで、情に厚く、炎の気性。フリードは冷徹で己にも他にも厳しく氷の気性。そんな話を聞くだけで、リュティアは想像を膨らませ、彼らを大好きになることができた。

「あんな上司たちの見送りはいいんだ。二人そろって視察だなんて名目で、ほぼ物見遊山の旅に決まってるし。それよりその、ええと、なんだ、せっかくの休みだから、会いに来た、というか…」

「え?」

カイの台詞の後半は消え入りそうな呟きで、リュティアは聞き取れない。

木から降りたリィラには聞き取れたらしく、にやにやとカイを眺めている。

「兄様、制服のえりが立っているわよ」

「え」

「それに、頬に朝食のパンくずが」

「ええっ、う、うるさいなリィラ。そんなことよりリュー、これを。さっき、遠乗りに行って偶然みつけたから…って、あれっ」

カイがポケットから取り出したのは、どうやら薬草のようだった。

どうやら、というのは、それが無残につぶれ、すっかり原型をとどめていなかったからだ。

それによくよく見れば、カイが駆けてきた道筋に、転々と薬草らしきものが落ちている。

いかにもカイらしい。

彼はその見た目と裏腹に、とことん不器用な青年なのだ。

カイは「ええい、薬草はこの際いい。リュー、これを」と反対側のポケットから何かを取り出した。

「まあ」

それは白く可憐な鈴なりの花だった。

「ありがとう! カイ」

「その、…ええと…リューに、似合うと思って…」

カイはリュティアの髪に、その花を、壊れ物を扱うようにそっと飾った。

まぶしそうに、カイは目を細めてリュティアをみつめる。

「き、き、きれい…だ」

非常に勇気を出したのだろう、真っ赤になってそう口にするカイに、リュティアはにっこりと無邪気に微笑む。

「ええ、本当に、花がきれいですね」

「そ、そうじゃなくて」

「ああ、空がきれいですよね」

「…………」

がっくりとうなだれるカイを見て、リィラがこらえきれないというように吹き出した。

リュティアはカイの気持ちを知らない。

そしてカイがきれいだと言った自分の美しさも、知らないのだった。

ゆるく波打つ黒髪は、つやつやと黒曜石のごとく輝き、繊細な滝のように淡く光を弾きながら、細くくびれた腰まで流れている。誰しも目を細めずにはいられない、滑らかな肌のその透き通るような白さ…。長い睫毛が至宝のように大切に抱く大きな瞳は、朝焼けの一番最初の光に照らされた空のような幻想的な薄紫色だった。その赤く色づいた唇からこぼれる吐息の調べには、草花でさえうっとりと耳を澄ますだろう。

まさに、絶世の美貌の少女。

しかしそれは外の世界に出ればの話だ。この外界から遮断された花園宮では、リュティアは何も知らずにいられた。何も。
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