聖乙女(リル・ファーレ)の叙情詩~はじまりの詩~
リュティアが唇を開きかけたその時、不意に木の影から人影が現れた。

それは長い黒髪を背に流した、見知らぬ若い男だった。ずぶぬれの様子を見れば、二人を追って川に飛び込んだのだと知れる。男は灌木をかき分けずんずんとこちらに向かってくる。そして手を振り上げると、いきなりシアの泣き濡れた頬を平手打ちした。

容赦のないそのやり方に、シアの頬が見る間に腫れ上がる。

リュティアはあまりのことに呆気にとられてただ見ていることしかできない。

シアも打たれた頬を押さえて呆然と男を見上げている。

「黙って聞いていればめそめそめそめそと!! この大バカ娘!!」

「大バカ…? 大バカですって…?」

シアの瞳が瞬時に生気を宿して輝きを放った。それは怒りのためだったが、リュティアには目の覚めるような眩しい変化に思えた。

「誰が大バカよ! こんの、暴力男!!」

立ち上がったシアの腕が閃き、男の頬に平手打ちを返した。リュティアは口に両手をあて息をのんだ。いったい、何がどうなっているのだ。

「言ったなこの暴力女! 何もかもを失っただと? ふざけるな!」

男はシアの両肩をつかむと荒々しく揺さぶった。その瞳に真摯な光が宿った。

「俺がいる。いつだって、この俺がいるのに、お前は…! 勝手に妹を探しになんて出かけて、俺がどれだけ心配したと」

「ザイド」

シアの瞳が揺らいだ。その瞳が熱を帯びていることに、リュティアは気がついた。それでようやく二人の関係に思い当った。

「ザイド、だって、パールが、私のパールが…うわぁぁぁんっ」

再び両の眼から涙を溢れさせたシアを、ザイドと呼ばれた男はしっかりと、やや乱暴に抱き寄せた。シアは男の胸にすがりついた。

リュティアはなんだか、気が抜けてしまった。

疑問の答えはどうやらリュティアが教えるまでもないようだった。このザイドが、時間をかけてゆっくりと教えてくれるに違いなかった。シアはいつか受け止められるだろう、妹の死を。

死―――?

その時ふと、リュティアの胸を不思議な感覚がよぎった。

―妹パールは、生きている―

何故かはっきりとそう感じた。しかしそれがなぜなのかは、まったくわからなかった。
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