聖乙女(リル・ファーレ)の叙情詩~はじまりの詩~
「はははっ。私の姫君は今日も絶好調に鈍いと見える」

朗らかな笑い声が耳に届くと同時に、リュティアは突然何者かに目隠しをされた。

「私が誰かわかるかな? お鈍さん」

甘い声の主が、わからぬはずがない。

リュティアは全身をぶつけるようにして背後の人物に思い切り抱きついた。

「ラミアードお兄様!!」

飛び込んだ腕の中は温かかった。温かい腕の持ち主はわずかに肩口に届く黒髪を、陽の光に蒼く透かして微笑んでいた。

彼がまとうのは、純白の布地に、金糸銀糸で縫い取りがなされたチュニックとズボンだ。純白に、金と銀。色使いだけでいうなら、花を引き立て花と共に生きるフローテュリアの民の一般的な服装のそれだ。

しかし、質が違う。彼の衣は見た目にも明らかにつやつやとして美しく、極上のシルクで織られているのがわかる。さらに、彼がさっそうと翻す紺青の毛皮つきマントは、王族のみに許されたもの。それを彼は、自然に滲み出る風格と共に着こなしている。

彼こそ、リュティアのただ一人の兄にしてフローテュリア王国の世継ぎの王子、ラミアード・グリュオン・フローラルその人だった。

今年二十歳になった、眉目秀麗、優しく品行方正な王子は誰からも愛され、王になるために生まれた人だと人々の期待を一身に集めていた。

「私の姫君は、ご機嫌いかがかな?」

「最高です! お兄様がいらしてくださったのだもの」

「だそうだぞ、カイ」

ラミアードはいたずらっぽく瞳を瞬かせると、カイによく見えるようにわざとらしくリュティアを抱き返した。カイは「なっ」と息をのみ、ラミアードを睨みつける。カイはラミアードの乳兄弟。ゆえに身分の差はあれど、二人は気安い仲だ。

「私の星麗の騎士は、お兄様だと思うのです…」

最後まで言い切らないうちに恥じらうように視線を落とすリュティアに、ラミアードは愛しくてたまらないというように、軽く彼女の額をつまはじきした。

「違うよリュー。君の星麗の騎士は未来にいる。きっといつか、とっておきの時に君を助けてくれるよ」

「いいえ、お兄様です」

「かわいいリュー。よく考えてごらん。もしかしたら星麗の騎士は、もう君の近くにいるかも知れないぞ」

笑いを含んだ声でそう言って、ラミアードは力をこめてリュティアの体を離した。するとバランスを崩したリュティアは、向かいに立っていたカイの腕の中に転がる格好になる。

カイによこされる、ラミアードのウインク。しかし、

「じゃあ、最強の戦士と名高いプリラヴィツェのアクス様かしら…」

と当のリュティアはこの調子だ。

「アクスは妻子持ちだ!」

カイは怒ったように言うと、口調とは裏腹の優しい手つきでリュティアを立たせた。

この時三人が意味ありげに目配せしあったことに、リュティアは気が付かなかった。

「リュー、目を閉じて」

ラミアードに突然そんな風に言われ、素直なリュティアはわけもわからず目を閉じる。

「今だ、さ、目を開けて―」

声を合図に彼女が目を開いた時―

彼女の視界いっぱいに、あでやかな色彩がおどった。

赤に黄色、橙に水色、白に青―視界を舞う色とりどりの何かが花びらだと気付いた時、いたずらな風がふわりと渦巻き、花びらはきらきらと光を弾き輝きながら、彼女のまわりを風に乗って舞った。そして腕や頬、髪や唇にさらさらと触れては滑り落ちていく。

それはあまりにも美しい光景で、リュティアは、まるで夢の楽園の空を舞っているような錯覚をおぼえた。

「15歳最後の日、おめでとう! リュー!」

「おめでとうございます!」

「おめでとう!」

ただ目を瞠り言葉をなくしていたリュティアは、彼女を取り巻く三人の笑顔と言葉に、ようやくこれが彼らから自分への祝福なのだとわかった。

どこから持って来たのか、カイが持った空のバスケットを見れば、そこに花を集めてくれたのだとわかる。

フローテュリアでは、誕生日の前日に贈り物をする習慣があることは勿論知っていたが、リュティアなどすっかり自分の誕生日を忘れていたというのに、彼らが覚えていてくれたとは。

リュティアは笑み崩れた。

「ありがとう…! ありがとうみんな…!」

「リュティア様、私が花を集めたんです。こっそり集めるのに苦労しました」

「おい、半分集めたのは私だぞ、リィラ」

「青い花は私の担当だった。今の時期、青は探すのが難しかったな」

その時やいやいと賑わう三人の声に、野太い声が重なった。

「おいお前たち、考えたのは私だぞ。私を忘れてもらっては困る」

現れた人影に、リュティアは目を丸くして驚いた。

「シリウスお父様!!」

たてがみのような硬質の黒髪を背に流した偉丈夫が、リュティアに微笑みかける。一見すると獅子のごとき印象があるが、その手が大きくて優しくあたたかいことをリュティアは知っている。

フローテュリア王国、聖王シリウス・ガーヴェン・フローラル。御年四十一。リュティアとラミアードの父親だ。稀に見る美形の兄妹の父親だけあり、その顔立ちには荒々しさだけではない、気品のようなものが滲みだしている。

「お前には、何より花が似合うと思ってな、リュティア」

「お父様! なんて珍しい。お会いできて、嬉しいです。母様の具合はどうですか?」

「…そうだな、リュティア、プレゼントは花吹雪だけではないのだ。ラミアード、例のものを」

「はい、父上」

やや不自然に話を逸らされたことに、リュティアは気が付かなかった。

ラミアードが懐から取り出したのは、押し花のしおりだった。

釣鐘型の、黄色から赤へのグラデーションが見事な押し花のしおり―

「これって…幻の花、サンテギウス…?」

「そうだ。知ってのとおりサンテギウスは山奥で10年に一度しか咲かない幻の花だが、昨日開花したと文部省花管理庁から報告があった」

花の王国フローテュリアでは、文部省の中に花管理庁という珍しい庁が置かれ、国中の花を管理している。その情報は常に正確だ。リュティアは話の流れに気が付いて、胸が高鳴りはじめるのを感じた。

「まさか…まさかお兄様…」

「行こうリュー! 幻の花、サンテギウスを見に、外へ―!」

外へ―。

その言葉の響きに、リュティアはめまいを感じた。

リュティアは7歳になるまでを辺境の湖畔の館に閉じ込められるようにして過ごし、そこが事故で焼失してからはこの花園宮で幽閉されて育った。だから詩篇に高らかにうたわれる王宮の外観や、果樹園、花の咲きこぼれる美しい町や野を、一度もはっきりと見たことがなかったのだ。

「本当に…本当に?」

「ああ。こっそり抜け出す手はずは整っている。今、街は、ルピナスの花やリラの木がつける紫や桃色の花、アカシア(針槐)やスパイリーア(雪柳)のつける白い花で溢れかえっているよ。君に王立の大果樹園も見せよう。果樹園は今春の花の季節だ。あそこは美しい」

リュティアは桃や花梨、林檎や李(すもも)の木がいっぱいに花をつける様子を思い描いて歓声をあげた。

外に出てみたい。

それはリュティアの長年の夢だった。

風の匂い。花の匂い。緑の匂い。すべてがきっと、こことは違うのだろうと、何度思いを馳せたかわからない。

それが明日、叶うのだ。

感極まって再びラミアードに抱きついたリュティアの体をそっと離し、ラミアードが懐からもう一枚先程と
同じサンテギウスのしおりを取り出した。リュティアの手の中のそれと重ね合わせて、とっておきの秘密を語るようにラミアードは囁く。

「これが私たちのチケットだ。明日必ず、迎えに来る」

「はい!!」

その様子を満足げに見守っていたシリウスが、三人を順に見回す。

「カイ、リィラ、お前たちも二人に付き添うように。共に行きたいが、王たる身は辛いな。お前たちは皆、私の宝だ。くれぐれも、気を付けていくように」

そう言って、シリウスは三人の頭を順に軽く撫でた。

これは本来、あってはならないこととされていた。

聖王は神の加護を受ける聖なる存在。ゆえに軽々しく他の者に触れてはならないと王室典範で記されている。それをこうした形で堂々と破ることができるこの王を、愚者とののしる者もいようが、視点を変えれば器量の大きな王であるともいえる。

そのどちらが正しいかは、現在のフローテュリアを見ればおのずとわかるだろう。

今現在、フローテュリアは新しい活気に包まれ、かつてない繁栄を見せている。長い平和が生んだ数々の文芸大学の学費は、シリウスの代ですべて無料となった。士官学校も、子供の医療費も無料になった。それは彼が新しく始めた鉱山の開拓で、国庫が潤っているためにできたことだった。

リュティアは尊敬する父王を見上げ、明日に思いを馳せて、幸せのため息をついた。
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