聖乙女(リル・ファーレ)の叙情詩~はじまりの詩~
第二章 聖乙女(リル・ファーレ)

ひきずるようにしてなんとか小麦の大袋の移動を終えたリュティアを、鋭い目つきとそばかす顔が印象的な娘がねめつける。

「何ぼさっとしてるの! 次は石炭レンジの焦げとりだよ。なあにその目は。寝床と食事をやってるのは誰だと思ってるんだか。さあ、さっさとやりなさい。日暮れまでに終わらないと食事抜きだからね!」

「はい…」

怖い顔の娘はデイヴィと言って、リュティアとカイがここ一週間ほど世話になっている、アタナディール山奥の町サヘラの宿の娘だ。カイが路銀を稼ぐために、木材の切り出し場で重労働に励んでいる間、リュティアは家畜小屋のわらの寝床と引き換えに宿の手伝いをしていた。

宿の手伝いと言えば聞こえはいいが、その実男でも手を焼く重労働ばかりを、デイヴィはリュティアに押し付けた。家畜の糞尿そうじ、穀物の入った大袋の移動―

ただでさえ深窓の姫君として育ったリュティアだ。これは大変にきつい仕事だった。しかし、カイに迷惑をかけたくない一心で、リュティアは一生懸命に働いた。

リュティアには、なぜデイヴィがこれほどまでにリュティアに意地悪をするのかなど、―意地悪をされている認識すら危ういのだから―皆目見当もつかなかった。

リュティアは言われた通り石炭レンジの焦げとりに取り掛かったが、それはひどい苦痛を伴う作業だった。焦げで手が真っ黒になるからだけではなく、なぜか洗剤が強烈なかゆみをもよおすからだった。それはデイヴィがわざと、洗剤にかゆみの出る植物エキスを仕込んだからなのだが、リュティアにそれがわかろうはずもない。

リュティアは時折手を止めざるを得なかったが、そのたびにデイヴィはひどい言葉でリュティアをなじった。洗剤を含ませた雑巾を顔に投げつけられたりもした。

顔のかゆみ、手のかゆみに耐え、リュティアはなんとか、日暮れまでに仕事を終えることができた。

しかし…

「よくがんばったわね。さあ、たんとお食べ」

リュティアの目の前に用意されたのは―

蛆虫(うじむし)のたかった、古いシチューだった。

リュティアが当然のことながらそれを食べられずにいると、デイヴィが突然癇癪をおこした。

どこからか大きなはさみを持ってきて、リュティアの長い髪をわしづかみにする。

「あんたのこの長い髪、うざったいのよ!!」

丁度その時外で人の気配がして、カイが仕事から帰ってこなかったら、リュティアの髪はざんばら髪にされていただろう。

「リュー、ただいま。遅くなって済まない」

カイの顔を見ると、リュティアはほっとした。だからデイヴィがはさみと蛆虫シチューを隠したことにも気が付かなかった。

「カイ、お帰り! リュティアは今日もがんばっていたわ。晩御飯、できているわよ」

カイを前にした時の、デイヴィの猫なで声と急変する態度に、リュティアはとまどうばかりだ。

「家畜小屋の方でいただくよ。リュー、行こう」

温かいシチュー(無論蛆虫などたかっていない)とパンを受け取ったカイと共に、リュティアは二人が寝泊まりしている家畜小屋に向かった。

家畜小屋は狭く、暗く、ひどいにおいが充満していて、決して快適とは言えなかったが、旅の最初で路銀を盗まれてしまった二人は、これで我慢するしかなかった。

「リュー、疲れただろう。これを食べろ」

「え? それはカイの…」

「私は腹が減っていないんだ」

それは嘘だとリュティアは思った。

木材切り出し場の親方はひどい人で、労働者たちに水しか用意しないと宿の客たちが話しているのを聞いたのだ。

「私も、おなかがすいていません」

リュティアは虚勢を張った。カイのために。

カイは優しい。

全身全霊でもってリュティアを守り、労わってくれる。

だから、リュティアは何も聞けずにいた。

二か月前、フローテュリアに何が起こったのか。なぜ自分たちはヴァルラムに向かっているのか。そこには何があるのか。いつフローテュリアに戻れるのか。カイが大事に守っている古い石板と黄金づくりの剣はなんなのか。

そう、聞けなかっただけでなく、何も聞きたくなかったのは確かだ。リュティアは何も知りたくなかった。考えたくなかった。だからリュティアはただ、カイを信じて旅を続けるしかなかった。

二人はしばらく頑として食事を譲り合っていた。しかしその時ふたりのおなかが同時に情けない音を立てて鳴った。カイは苦笑し、固い黒パンを半分に分けてリュティアに差し出した。

リュティアももう強情にそれを突き返そうとは思わなかった。

どちらからともなく、二人は黒パンにかじりついた。

わずかな黒パンを分かち合いながら、リュティアはこの世にたった二人きりになってしまったようなわびしさを感じた。それはぽっかりと穴の開いたような孤独だった。そんなはずがないのに。フローテュリアに帰れば、大好きな人たちがきっと待っているというのに。

結局二人はシチューもきれいに半分ずつをたいらげた。二人の一日の労働を考えれば到底足りるはずのない量ではあったが、それでも何も食べられないよりはましだと言わざるをえなかった。

それほどに、この国、アタナディールは過酷な国だ。

二人はフローテュリアを離れ、それをいやというほど実感させられていた。

急峻な山岳地帯に這うようにして点在する町々では、作物の栽培が難しく、いつも食料が足りないか、もしくは輸入物がひどく高い値段で取引されていた(ゆえに路銀を失ってから二人は、食べ物にありつくだけで苦労に苦労を重ねた)。山岳ゆえに雨が多く、強い風が吹き、いつも空は灰色に淀んでいる。アタナディールがこれほど過酷な国なのは、「最初の叙情詩」で「王族のみの平和」を願ったからだと言われている。なるほどそれならば、山頂の石の城で王族だけが贅沢な暮らしをしていると皆が恨めしく言い合っているのも頷ける。人々は酒を飲んで日々の報われぬ労働の疲れを癒しているが、荒くれ者が多く、すぐに喧嘩になる。リュティアは宿でそんな騒ぎを目にするたび、恐ろしくてたまらなかった。

しかしもっと恐ろしいのは、彼らが独自の宗教を持ち、皆光神など信じず、魔の象徴とされる月を崇めていることだった。

彼らが月の満ち欠けに応じて犠牲を捧げるのを何度も見てきた。

鳥やウサギ、イノシシや牛や豚を、生きたまま炎の中に投げ入れるのだ。
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