一般人令嬢は御曹司の婚約者
風呂をご所望な御曹司のために、急いで着替えなどを用意してやる。
荷物を抱え、彼の傍に控えると、遅いというお叱りを受けた。
1分も待てんのかこのボンボンは。

脱衣所に着くと御曹司は無造作に服を脱ぎだす。
私は荷物をかごに入れてとっとと退散しようとしたのだが。

「待て」

「………まだ何かワン」

背を向けたまま足を止める。

「俺の背中を流せ」

「はぁ?」

理解の範疇を超えた一言に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

「聞こえなかったのか、犬の癖に耳が遠いな」

私はヒト科の人間だ。
聴覚も嗅覚もヒトのそれですが何か。

「俺の背中を流せって言ってんの」

「ひぃっ!」

耳に息を吹き込むようにして話され、気持ち悪さに鳥肌が立つ。

「何だよその声、失礼だな。普通は『あんっ』とか言って、腰砕けになるとこだろ」

「夢を見すぎです。そんな気持ち悪い声、どこから出してるんですか」

「ワンが抜けてるぞ、犬」

「あー、あまりにもゴシュジンサマが気持ち悪かったものだから、ついワン」

「きもっ……」

「腰砕けにさせたいなら、声優くらい美声になってから出直してきなさいってのワン」

「俺の声が気持ち悪いっていうのか!」

「特に『あんっ』の部分が……」

「もういいっ、さっさと来い、背中を流せ!」

ペチペチと情けない足音を立てて大浴場に行く御曹司。

「あ、逃げたワン………あー……」

御曹司の前じゃないから『ワン』はいらないのに。
どうにも『ワン語』とやらは難しい。

「遅い! 犬! 早く来い!」

「はいはい、ただいまワン!」

扉の向こうから呼ぶ声におざなりに返事を返す。
御曹司の命令に従わないわけにはいかないからな。
面倒なことに。

私はストッキングを脱ぎ、大浴場に続く戸を開けた。
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