時の流れで、空気になる【短編】
「寝てても構わない。俺が残業で帰りが遅い時くらい、ポーチの灯りは点けたままにして欲しいよ」
有村さんが繰り返す結婚生活残酷物語に、いつの間にか洗脳されてしまったのかもしれない。
だが、空白の指を、このまま放置しておくわけにはいかない。
サツキにメールで、指輪を失くしてしまったことを告白したが、なんのリアクションもなかった。
なんでだ。そんなに怒っているのか。
ーー同じやつを買って、嵌めておこう…
俺は、会議中に思い付いた。
指輪を買った店は、サツキが見つけてきた、そこそこ高級感のある店だ。
会社帰りのスーツのまま、1人で自動ドアの前に立つのは勇気が要った。
午後9時閉店の店に、8時45分に駆け込むなんて、迷惑以外の何ものでもないだろうが、残業から逃れることはできないから、仕方ない。
ブオン、とガラスの扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
ショーケースの向こうにいた黒いユニフォームに、ブラウンの巻き髪をした女性が驚いたようにこちらを見る。
当たり前だ。男1人の客なんて珍しいだろう。
というか警戒されるに決まっている。