時の流れで、空気になる【短編】


「寝てても構わない。俺が残業で帰りが遅い時くらい、ポーチの灯りは点けたままにして欲しいよ」



有村さんが繰り返す結婚生活残酷物語に、いつの間にか洗脳されてしまったのかもしれない。




だが、空白の指を、このまま放置しておくわけにはいかない。


サツキにメールで、指輪を失くしてしまったことを告白したが、なんのリアクションもなかった。


なんでだ。そんなに怒っているのか。



ーー同じやつを買って、嵌めておこう…


俺は、会議中に思い付いた。



指輪を買った店は、サツキが見つけてきた、そこそこ高級感のある店だ。


会社帰りのスーツのまま、1人で自動ドアの前に立つのは勇気が要った。


午後9時閉店の店に、8時45分に駆け込むなんて、迷惑以外の何ものでもないだろうが、残業から逃れることはできないから、仕方ない。



ブオン、とガラスの扉が開いた。


「いらっしゃいませ」


ショーケースの向こうにいた黒いユニフォームに、ブラウンの巻き髪をした女性が驚いたようにこちらを見る。


当たり前だ。男1人の客なんて珍しいだろう。
というか警戒されるに決まっている。



< 6 / 14 >

この作品をシェア

pagetop