臆病者の逃走劇.
彼は、あの短い時間で、少しだけ関わりをもった私のことを、覚えているのだろうか。
きっと覚えていないだろう。
だって、あれから言葉はなくて、目さえもあったことがない。
私だけが覚えていて、
私だけが見て、一人、ときめいている。
…いいんだ。
だって、覚えてくれていたって、結局私は周りの目が気になって彼と話すことなんてできないし。
隣に並ぶだなんて、考えられないんだから。
これで、いいんだ―…
「さーな!」
「わっ」
後ろから突然に背中を叩かれて、それまでぼうっと考え込んでいた私は、はっと顔をあげた。
そして後ろを振り返ると、思った通り、友達の楠木 美緒〈くすのき みお〉がにっこり微笑んでいる。
それに対して私、山本 紗菜〈やまもと さな〉も背中にじんわりとした痛みを抱えながら、苦笑いを返した。