忠犬カノジョとご主人様
築5年ほどのマンションは、タクシーで8分ほどの所にある。
支払いは自分ですると言ったのに、双葉さんが強引に払ってくれた。
車から降りると、いよいよ俺の中の緊張がマックスになり、心臓が鼓動をはやめだした。
双葉さんがふらふらの俺を支えながら一緒に階段をのぼってくれている。
俺の思考回路は、ベッドの上にいかがわしいDVDを置きっぱなしにしていないか、というバカみたいな心配でいっぱいだった。
部屋の前に着くと、ほぼ硬直状態の俺に、双葉さんはこう言い放った。
「じゃあ、今日はゆっくり寝て、体調はやく万全にしてね。それじゃ」
「え!?」
颯爽と帰って行こうとした双葉さんを、俺は思わずひきとめた。
あれ、よく考えてみたらなんで双葉さんが家にあがる前提で妄想していたのだろう……彼女は送ると言っただけで、そんなわけないのに。
1人でパニックになっていた自分が急に恥ずかしくなり、引き止めてしまった腕をどうするか非常に気まずい空気が流れた。
「どうしたの?」
「あ、いや……、その、すみません俺のせいで海空さんと……」
苦し紛れに話題を出すと、双葉さんは困ったように笑った。
「ああ、全然良いの。ああいうことが原因で喧嘩することは初めてじゃないし……」
「でも……」
「気にしないで。ただ今日はちょっと海空さんのためにご飯を作る気になれなかったから、逃げたかっただけなの。ごめんね強引なことして。でも八神君が心配だったのは本当だよ?!」
最後の方慌てたように付け足した双葉さんがあまりに必死で可愛くて、俺は思わず笑った。
……そして同時に、切なくなった。
そうか、この人は、俺の家についてきても何もないって、そう思っているからここまで来たんだ。
つまり俺は危険とも思われていない完全にノーマークの、ただの部下。異性として意識もされていない。
いつもにこにこしている彼女を怒らせることができるのは海空さんだけで、こんなに悲しい表情をさせているのも海空さんで。
でも、彼女を笑顔にできるのも、幸せにできるのも、今の所海空さんだけで。
彼女の一喜一憂を握っているのは、海空さんだけで。
それがひどく、羨ましく憎らしい。