浅葱色に射す一筋の光
新撰組っっっ!!!
ついにこの日が来た…。
8月18日の政変…芹沢…最期の大仕事
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大和焼き討ちの後始末で少し出動が遅れた。
でも、この歴史的瞬間立ち合える!
例え…御花畑の警護でもっっっ!!!
感動ーーーーーーー!!!
文久三年(1863年)8月18日、武装した薩 摩・会津・淀藩の兵が京都御所内に入ると、 すべての門が閉ざされ、尊皇攘夷派の公家が 御所に入る事を禁止し、それまで長州藩が 守っていた堺町御門の警備を解任 し、交代に 薩摩藩が警備する事とする。
宮廷内は公武合体派で固められ、尊皇攘夷派 の公家たちは、中に入れてもらえず、長州藩 兵も、硬く閉ざされた門に近づく事さえ困難 な状態・・・。 薩摩・会津藩兵とにらみ合い、一触即発の状 態となるが、「長州藩は撤兵せよ」 との勅命が出た事で、長州藩は仕方なく撤退し、 翌日、長州藩の京都退去 、尊皇攘夷派の 公卿 の洛外退去が命じられ、 三条実美ら7人の尊 皇攘夷派公卿は、長州藩を頼って京の都を去る。
まず、門前で一悶着…私は土方の小姓であるからして…ちゃっかり幹部達の中に…つまり…局長、副長幹部達のいる先頭にいた。
御所の蛤御門に到着した壬生浪士は、その場所の守備を担当していた会津藩に御所内の警備にあたるので中に入れてくれと告げるが、そこにいた会津藩士 たちは、壬生浪士のことを知らず、「不審者は通すわけにはいかない」と拒否。
そこで登場したのが芹沢鴨。 会津藩に向かって悪口雑言を口にしながら通せ通さないの押し悶着が続く 鉄扇を使ってね。
その後、この知らせを受けた会津藩の軍事奉行や公用方が駆けつけ、事態はようや く収拾。壬生浪士は御所の南門の御花畑の警備が割り振られる筈。