この冬が終わる頃に

「あの、桐島先輩、コーヒーどうぞ。」
「ええ、そこに置いといて。」

 恐る恐る声を掛けてきた甲斐田に、私は目も合わせず応える。
 甲斐田は、静かな声で失礼します、というと私のデスクの上にコーヒーを置いた。
 コーヒーのいい匂いが、鼻を突っつく。

 仁和との一件の翌日、私は荒れていた。
 朝、真っ白な報告書を見た瞬間から、怒りが込み上げてきたのだ。
 それから、一日中、苛立ちが収まらない。
 パソコンのキーボードを打つ音も自然と大きくなる。気付けば、ため息の数も多い。
 そんな私に気を使って、甲斐田は朝から何度もコーヒーや、チョコレートなどの甘いものを差し入れてくれる。
 甲斐田は何も悪くないのだが、機嫌を取ろうとしてくれる彼についつい甘えてしまっている。
 私の機嫌を除けば、仕事は順調。
 納期の締め切りも迫っていないし、会議もない。公私混同をしなくなったなんて、私も大人になった。
 抱えている仕事の区切りがついたら、今日は早く帰宅しよう。特にすることもないので、テレビをだらだらと見て、だらだらと布団に入ろう。
 そんなことを考えながら時計を見つめていた。あと、数分で定時だ。

「桐島先輩。先輩も飲みに行きませんか?」

 大きな瞳をくるくると潤ませながら、甲斐田が駆け寄ってきた。
 その後ろから、やれやれとでも言いたげに岡田が視線を送ってくる。
 多分、気を使われていて、断るに断れない状況だ。部下からの誘いを断らないのも仕事の内だろうか。
 甲斐田は、よく仕事も頑張っているし、労ってやるのも義務かも知れない。

「そうね、明日休みだし、ぱぁぁっと飲もうか!」
「さすが、先輩っ。」

 本日、ようやく私のご機嫌が取れたのが嬉しかったのだろう、甲斐田はぱっと顔を明るくさせた。
 それから私のコートを拾い上げて、いそいそと運んでくる。
 そんなことを凄く嬉しそうな顔で、さも当然のようにして来るものだから、私としても甲斐田が可愛く思えてくる。

「先輩、マフラー新しいの買ったんですね。」
「ええ、デザインが気に入っちゃって、つい衝動買いを。」
「本当ですね、素敵な刺繍が入ってます。」

 そう言いながら、私のマフラーを食い入るように見つめてくる。
 そんな大層な刺繍でもないのに、見つめてくる甲斐田が可愛くて、頭を撫でてやる。
 そんな私たちのやり取りを、岡田は半ば呆れモードで見守っている。
 仲がいいと、皆口を揃えて言う。まんざらでもない。甲斐田は可愛い。後輩は可愛い子に限る。

「先輩、どこに飲みに行きます?いつものとこでいいですか?」

 甲斐田が私を見ながら言うので、私はとりあえず頷く。
 すると、甲斐田は早速、予約の電話をかけていた。
「今から、大丈夫だそうです。ささっ、行きましょう!」

 日頃、控えめなのに、こういう時は行動的になる甲斐田に私はいつも押し切られる。
 しかし、いつも悪い気はしない。
 馴染みの飲み屋で、気心の知れた部下たちとのんびりお酒を飲む。凄くいいかもしれない。私の気分も浮き足立ったころ、私の頭の奥に突き刺さる声がした。

「断る。」

 真っ直ぐで、他者を寄り付かせない強みのある声に、振り返ろうとした。
 しかし、振り返る前に腕をつかまれた。
 二人とも、目が点になっている。

「俺と先約があるんだ。断る。」

 その声は、私の頭を麻痺させる毒素があるのか、つかまれた腕を振り払うことさえ忘れさせた。
 見上げると、私の右上に、腹が立つほど整った横顔があった。まぎれもなく、仁和が私のすぐ隣にいた。

「というわけで、彼女抜きで、飲み会でも何でも行ってくれないかな?」

 仁和がにっこり笑う。
 その笑みの真ん前で、甲斐田は固まっていた

「ちょっと、何勝手に営業部がデザイン部に入って来て、というか、あなたとは約束もなにもしていません。腕、放して、勝手に触らないで。」
「今夜は、家でゆっくりする予定だったって、顔に書いてあるけど?いいんだ?」

 自分はお前のことなんて、何でもお見通しだ。そんな含みのある声が、耳元でささやく。
 図星を差され、動けなくなる一瞬を、仁和は見逃すことなく、たたみ掛けた。

「ということで、桐島さんは俺が責任持ってもらうから、彼女なしで、悠々と飲んできてくれ。」
「でもっ。」

 可愛い顔をした甲斐田が、反撃に出てくれるが、仁和に勝てるわけもなく、睨み付けられて言葉をなくした。すっかり怯えきった甲斐田を、岡田が引っ張りながら出ていく。

「甲斐田、お前じゃ、分が悪い。俺達だけで飲み会しようなぁ。」

 愛され者の甲斐田は、揶揄されながら連れていかれる。

「桐島さん、お先に失礼します。甲斐田は、こっちでどうにかしますので、ごゆっくり。」

 そう言い残され、二人が出ていくと、急に静かになった。
 カチカチと時計の秒針の音だけが響く広いオフィスで、どうしてこんなに仁和と密着していないといけないか。
 それだけで、私は腹が立ってきた。

「放して。」
「はいはい。」

 あきれたように仁和は、私の腕をすんなりと放した。
 それも、小馬鹿にされたような気がして、私の癇に障る。

「いいチームだね。」
「どうも。」

 ふふふ、と仁和は柔らかく笑った。
 イケメンというのは、本当に優位な生き物で、その笑みを見ただけで、一瞬怒りを忘れてしまう。
 微笑みに騙されてはいけない。

「要件がないなら、失礼します。」
「あのガキと飲みに行けて、俺といけないわけ?」

 力任せに、右の手首をつかみあげられる。
 手首に伝わる彼の掌は、妙に暖かくて汗ばんでいた。
 白くて、骨ばった細い指。しかし、自分のものとは比べ物にならないほど、大きな男の手だった。
 その手ひとつで、私は自分が逃げられないことを悟った気がした。

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