この冬が終わる頃に
本当は、こういう店は嫌いだ。
「俺のおすすめは、これとか、これ。あ、こっちも美味しかった。」
写真の一切載ってないメニュー。
カタカナばかりが並ぶ、姿も味も想像がつかない料理名。
それを指先ながら、仁和は酷く得意げだった。
今日は車じゃないから、と会社前でタクシーに乗せられ三〇分、有名なホテルに連れてこられた。
真下で見上げたその建物は、天辺が見えないほど夜空へ向かってそびえ立っていた。
さすがに身構える私などお構いなしに、彼はホテル内へ私を引っ張り込む。
やたらスマートに、いらっしゃいませ、というホテルマンにも煌びやかなシャンデリアにも、ふわふとした絨毯にも、全てに目が回る。
一方、仁和は慣れているのだろう、顔色一つ変えずに、エレベーターを捕まえると、最上階のボタンを押した。
到着地点は、高級そうなレストランの、一番奥の窓際の席。一面ガラス張りのそこには、空と街の曖昧な境界線があった。
星が散らばった空が凄く近い。足元には、オレンジの粒がまき散らされた街の光があった。タクシーを降りたメイン玄関が携帯電話の画面より小さく見える。
綺麗……、ため息が出るほど綺麗な景色が広がっていた。
しかし、そんな景色に見とれていられたのは、ほんの一瞬、現実に戻る。
「ワインでいいよな?」
仁和は形だけ了承をとると、呼びつけたウエイターに流暢に注文をしていった。
もう、私には何が何だか分からない。
周りの客は、皆綺麗な格好をしている。
仁和も営業のエースだけあって、ただのスーツでも様になっている。私はというと、疲れた感満載だ。
しわの入ったスーツも、踵が削れかかったヒールも、崩れかけのメイクも、無意味におろしたままの髪の毛も、何もかもだ。完全に仁和のテリトリーに引っ張りこまれた上に、私は劣勢にもほどがある弱気にもなる。
いや、そもそも、仕事帰りに来るような店じゃない。まだ、甲斐田たちと、どこにでもあるチェーン店の居酒屋で馬鹿騒ぎしている方がましだ。
「ここのオーナーと仕事で知り合ったんだ。この店のウエブデザインを担当したの、うちの会社なんだ。」
「佐倉さんとかですか?」
「いや、森田。あいつ、しゃれたことに小賢しいデザイン重視だからさぁ。」
お酒の入った仁和は、雄弁だった。
真っ白い肌を少し赤く染めて、武勇伝を語る彼は、どこか子供っぽい。
謎のドレシングのかかった量のない前菜も、色鮮やかな野菜が固められた謎のゼリー状のものも、中心が赤い肉も、真っ赤なワインも、よく分からないが高級そうだ。
箸をつけるものの、いまいち味が分からないでいる。
「桐島里菜実さん。」
不意にフルネームを呼ばれて、心臓が飛び跳ねる。
「俺の名前知ってる?」
何かを試すような、挑発的な笑みを仁和は私に向ける。
「仁和麻人さんが、私に一体なんの御用ですか?」
いったい何がしたいのだろうか。仁和に絡まれてから、全てが腹立たしことの連続だ。この男とは何を話しても腹が立つに違いない。
「他には?」
仁和の綺麗な瞳が、真っ直ぐに私を見据えてくる。お酒のせいか、妙に潤んで熱っぽい。テーブル一つ挟んでいるはずなのに、やけに至近距離に感じだ。絡み酒だろうか、勘弁してほしい。
「はぁ、営業部のエースで、仕事が出来る。失礼で、強引で、お酒が絡むと面倒くさい。以上。」
そこまで私が言うと、仁和は笑いを押し堪えて、
「合格。」
そう、言った。
「今から俺と付き合おう。」
仁和は頬杖をついて、子供みたいに得意げに笑った。
思考が追い付かない。
全てに、目が回った。
煌びやかすぎる空間にも、慣れない料理にも、腹立たしいことこの上ない仁和にも、全てに目が回った。
目が回るというよりは、頭が回った。
思考回路がうまく働かず、現状が高波のように脳に押し寄せてくる。
ざぶんっ、と飲み込まれた。