彼方の蒼
◇ ◇ ◇
今日の放課後の合唱練習には倉井先生の姿があった。
聴きにきたのを女子の誰かが強引に引っ張りこんだようで、列に混ざって指揮者を向き、隣の子に楽譜を見せてもらいながら大真面目な顔つきで歌っていた。
遊びだからと手を抜けないところが愛くるしい。
知ってたけど! そんなのずっとまえから知ってたけど!
なんというか、ああそうだ、たとえば天使がいるとして、誰が天使か見抜けるヤツにしかこの感動はわかんないだろって話だ。
天使は歌い終えると僕には目もくれずに体育館から去った。
周囲にいた女子たちは口々に天使の美声を誉めそやし、話の聞き役になってしまった生徒たちはそんなことならもっと自分の近くの場所で歌ってほしかったとしきりに残念がっていた。
僕のような信者以外にも喜びが伝播するとは、やはり天使だ。
「なんとも意義のある練習だった」
「そうか? いつもとどこか違ってたか?」
「天使がいた」
「あー、はいはい。おまえにとっての天使様ね」
練習を終えてみんなが散り散りに教室へ向かうなか、トイレに寄った僕とカンちゃんは最後尾からのんびり続いた。
「使えるねこれ。今度から人前で先生のこと話すとき、天使って言おうかな」
「はあ? ハルの片想いなんてみんな知ってるだろ」
「そうかな。まだわかんないよ」
「わかるって」
カンちゃんは小さい子にでもするように僕の頭をぽんぽんと叩いた。カンちゃんが前、僕が後ろとなって階段を上る。
「密やかだからこそ噂が流れて、学校側から厳重注意を食らったり、処分が下されたりするもんだろ。おまえのは大っぴらすぎて微笑ましいっつーか、冗談っぽいっていうか、まともに学校に相手にされてねえだろ。あ、怒るなよ?」
なんだ。片想いかどうかわかんないよって意味で言ったんだけどな、僕は。
それでもカンちゃんの言おうとしていることは理解できた。
僕からすぽーんと抜け落ちていた発想だっただけに、新鮮だった。
「怒らないけど、子ども扱いされて腹立たしい」
「怒ってんじゃねえか」
そうカンちゃんがバカにした笑い顔を向けたときだった。
誰かが倉井先生の噂話をしている。噂話とも少し違う。
「どうした?」
足を止めた僕にカンちゃんも気づいて立ち止まる。
僕は鼻先に人差し指一本を立てて合図を送ると、静かに耳を傾けた。