彼方の蒼
 階段の踊り場まで来たとき、音楽が止んだ。
『大変お待たせいたしました。倉井です』
 先生の声だ。本物だ……って、当然なんだけどさ。
「先生? 僕です。惣山」
 電話の向こうの倉井先生は、息を飲んだようだった。僕は気にしなかったし、走り続けたし、まあ言葉を選ぶ余裕もなくって、せわしない。
「元気ですか?」
 図書室、調理室、木工室にはひと気なし。
『惣山くん。授業はどうしたんですか?』
 音楽室は僕のクラスが使っているから、見る必要なし。
 次、1階の第一·第二理科室……誰もいない。
「倉井先生のことを考えていたら、授業どころじゃなくなった。心配してるんだ、これでも」
『受験生でしょう? 自分の心配をしてください』
「ごもっともです。でももう内申書は書いたんだろ? 願書も今週中に提出するんだっけ? なるようになるさ」

 先生は黙ってしまった。この沈黙が怖い。
 被服室までもぬけのカラってことは、この特別教室棟にはいないってことか。
 僕は一般教室棟に目的地を変更し、またもや駆けだした。
 息の乱れをなるべく入れないようにしたいんだけど、これが難しい。
 というか、無理だ。

『惣山くん、息遣いが変ですけど、風邪でもひきましたか?』
「たちの悪い病気かもしれません」
『えっ?』
 恋の病、って言いたいトコだけど、そのまま返事をしないでおいた。
 一秒でも一瞬でも長く、僕のことを考えていてほしかった。

 倉井先生は言った。
『あの件に関しては、さきほど教室で説明したとおりです。あれ以上のことは言えません』
「そう言われても、僕はそのとき、教室にいなかったよ」
『さぼるほうがいけません』
「休み時間だったじゃないか」
 先生は黙った。
 僕も、言ってから、ああそういえばそうだったと思った。

 見たところ、1年生は全部、教室での授業だった。
 本当にこんな探しかたで見つけられるんだろうか。
 鼓動の速さは、運動不足のせいだけじゃない。
 僕は不安になってきた。

「せんせー。今どこ? 個人授業をお願いしたんですけど。あ、個別面談でもいいや」
 足を休めた。疲れた。

 倉井先生は電話を切ってしまった。
 この階の空き教室のどこかから、ふいに顔をのぞかせるのかと期待したのに、それもなかった。
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