ユーリカ
*
薄暗い部屋。
カーテンの隙間から、藍色に染まる空の光が、するり。
雀か何か、わからないけれど、鳥の、さえずり。
鼻腔を擽る香りに脳が心地好く覚醒してゆく。深い海の底から意識が浮上してくる。ゆらゆら。
──外の匂い。
少し冷たい朝の匂い。
背後の気配に気付いてのっそりと寝返りをうった。薄らと瞼に隙間を作って見えたのは、彼、の、後ろ姿。
今まさに、上着を脱ぐところ。
「おかえり……」
布団にくるまったまま、もぞもぞと口の中で言うと、彼は振り返って静かな声で「ただいま」と言った。
ベッドに近付いた彼に腕を伸ばす。私の意思を汲んで、彼が更に近付いてくれる。
彼が脱ごうとしていたジャケットにやっと手が触れて、私はそれをぎゅっと掴んだ。引き寄せるように力を入れると、彼はそれに逆らわずにベッドに膝を乗せた。
ジャケットの端を鼻先にくっつける。さっき感じた匂いが、ぶわ、と目の前に広がった。
「外の匂いだね」
目を瞑り、香りに酔いしれる。
ちょっと冷たい。だけれどとても満たされていて、朝露みたいに瑞々しい。微かに混じる砂埃の匂いすら、完璧な調合の結果に思える。
なんだかとても心地好い。このままもう一度眠ってしまいそう。
──あ、そうだ。
「ね、ここ寝て」
ポン、とベッドを叩いて彼を誘う。彼は私の頬を優しく、シルクの布みたいに優しく、撫でたあと「今着替えるから」と言ってベッドから離れようとした。
「あ、だめ」
もう一度腕を伸ばしてジャケットを(今度は割と強めに)掴み、彼を見上げた。
「そのまま。服着たままじゃないとだめ」
「埃っぽいよ」と彼は拒否しようとしたけれど、私は受け入れなかった。
彼は困ったように、ほんの少し眉尻を下げた。それから私が掛けていた布団を持ち上げて、するりと隣に体を滑り込ませた。
わ、冷たい。
彼の体全部から冷気が出てるみたいにひんやりする。でもそれがすごく気持ちいい。
彼が布団の中にきちんと収まるのを待ってから、私は彼の胸に顔を押し付けた。彼が腕を回してくれる。私は全部を包まれる。
彼の服に付いた、外の世界の残り香を、胸いっぱいに吸い込んだ。世界は淡く、藍に染まり、霧が掛かるビルの隙間に、太陽が優しく朝を告げる。
ああ、なんて完璧なんだろう。
まるい世界が、新しい日の始まりを、この世のすべてを祝福してる。
欠けてるものなんてないんだな。なかったんだな。ここに無いもの全部含めて、この世界は完璧だった。
鳥はさえずり、電車がそろそろ動き出す。私は眠るよ。だってこんなにも心地好い。
彼の手のひらが、私の頭を撫でてくれる。それがとても嬉しくて、彼の胸に頬を擦り付けたら、頭のてっぺんに、世界で一番愛しいキスを落としてくれた。
ああ、そっか、神様。
私、やっとわかったよ。
言葉にできない想いが喉の奥から込み上げて、涙になって零れたけれど、この涙の粒の意味も、起きたらきっと忘れてしまう。
でも私はこの時やっと、
生まれて初めて、泣いた気がした。
ユーリカ
了
カーテンの隙間から、藍色に染まる空の光が、するり。
雀か何か、わからないけれど、鳥の、さえずり。
鼻腔を擽る香りに脳が心地好く覚醒してゆく。深い海の底から意識が浮上してくる。ゆらゆら。
──外の匂い。
少し冷たい朝の匂い。
背後の気配に気付いてのっそりと寝返りをうった。薄らと瞼に隙間を作って見えたのは、彼、の、後ろ姿。
今まさに、上着を脱ぐところ。
「おかえり……」
布団にくるまったまま、もぞもぞと口の中で言うと、彼は振り返って静かな声で「ただいま」と言った。
ベッドに近付いた彼に腕を伸ばす。私の意思を汲んで、彼が更に近付いてくれる。
彼が脱ごうとしていたジャケットにやっと手が触れて、私はそれをぎゅっと掴んだ。引き寄せるように力を入れると、彼はそれに逆らわずにベッドに膝を乗せた。
ジャケットの端を鼻先にくっつける。さっき感じた匂いが、ぶわ、と目の前に広がった。
「外の匂いだね」
目を瞑り、香りに酔いしれる。
ちょっと冷たい。だけれどとても満たされていて、朝露みたいに瑞々しい。微かに混じる砂埃の匂いすら、完璧な調合の結果に思える。
なんだかとても心地好い。このままもう一度眠ってしまいそう。
──あ、そうだ。
「ね、ここ寝て」
ポン、とベッドを叩いて彼を誘う。彼は私の頬を優しく、シルクの布みたいに優しく、撫でたあと「今着替えるから」と言ってベッドから離れようとした。
「あ、だめ」
もう一度腕を伸ばしてジャケットを(今度は割と強めに)掴み、彼を見上げた。
「そのまま。服着たままじゃないとだめ」
「埃っぽいよ」と彼は拒否しようとしたけれど、私は受け入れなかった。
彼は困ったように、ほんの少し眉尻を下げた。それから私が掛けていた布団を持ち上げて、するりと隣に体を滑り込ませた。
わ、冷たい。
彼の体全部から冷気が出てるみたいにひんやりする。でもそれがすごく気持ちいい。
彼が布団の中にきちんと収まるのを待ってから、私は彼の胸に顔を押し付けた。彼が腕を回してくれる。私は全部を包まれる。
彼の服に付いた、外の世界の残り香を、胸いっぱいに吸い込んだ。世界は淡く、藍に染まり、霧が掛かるビルの隙間に、太陽が優しく朝を告げる。
ああ、なんて完璧なんだろう。
まるい世界が、新しい日の始まりを、この世のすべてを祝福してる。
欠けてるものなんてないんだな。なかったんだな。ここに無いもの全部含めて、この世界は完璧だった。
鳥はさえずり、電車がそろそろ動き出す。私は眠るよ。だってこんなにも心地好い。
彼の手のひらが、私の頭を撫でてくれる。それがとても嬉しくて、彼の胸に頬を擦り付けたら、頭のてっぺんに、世界で一番愛しいキスを落としてくれた。
ああ、そっか、神様。
私、やっとわかったよ。
言葉にできない想いが喉の奥から込み上げて、涙になって零れたけれど、この涙の粒の意味も、起きたらきっと忘れてしまう。
でも私はこの時やっと、
生まれて初めて、泣いた気がした。
ユーリカ
了