印毎来譜 「俺等はヒッピーだった」
1974年2月7日 千葉に行って泉と会った。
3年ぶりだ。顔は変わってねえが、変わってた。
18の冬、荒れた大学に見切りをつけた俺は、
ダクションの紹介で、当時グループサウンズを組んでた
泉とミミに相鉄西横浜の駅で初めて会った。
バンド名マスカット?グループサウンズじゃねえのか。
まあ学校よりゃいいか、で入った。正味1年、一緒に演った。
奴も色々あったらしい。バンドは辞めてた。
おやじの仕事手伝ってるけど、田舎帰って所帯持つって。
俺より大人だ。積もる話、山ほどして朝まで飲んだ。
2月11日はマーちゃん。彼も大桟橋に見送りに来てくれた。
広島からのバンド仲間。トウマッチの時、泉とミミと野音に
観に行った。怪傑ゾロの帽子かっこよかった。
楽屋で見た対バンのカルメンマキの頬は、透き通っていた。
71年頃、偶然一緒のステージも演った。
俺等はJUNKでプロと一緒に色んなステージ乗ったっけ。
秀ちゃんと良ちゃんと3人でレコード出して、コンサートも
やるって。メジャーデビューはホントだった。
小杉のサテンで旅の写真見せて話をした。ヒッピーに興味が
あるとは意外だった。俺の自慢話に合わせてくれたんだろな。
土産のスペイン火縄ライターを渡した。
2月18日 仁枝さんから電話がきた。
東京に出てくから逢おうぜって。豊橋へ行くつもりだったが、
わざわざ来てくれる、ありがたい。
彼とは72年の夏、アテネのユースで出会って島で野宿した。
デルフィー行ったり、何となくウマが合って、以来続いてる。
巨漢で酒飲みのタビニン、1年先輩。翌日上京した彼の希望で
浅草に行った。アフガンコート着てったら、相変わらずだって
笑われた。
雷門で昼飯食って、旅や人生の話。でも三河弁、ドイツ語より
難しいだら。半分笑ってごまかした。
彼はヨーロッパの前に色々行って、日常と旅のいいバランスを
とってる。俺の様にカルチャーショックや帰国ショックは無い。
次の計画は韓国だって。なんか羨ましい。
2月27日 夜中、震えるほど寒かった。
枕元になにかバサッと落ちた。つかんだらゴキブリだった。
うええ、この冬になんなんだ。
うとうとしてたら、お袋に起こされた。
「起きなさい。おじいちゃんが・・」
おじいちゃんが亡くなった。79歳。お袋の実父、博多生まれ。
若い時、ブラジルに密航して捕まった。
競馬にのめり込み新潟まで馬追っかけた。
刀鍛冶に弟子入りし、琵琶を弾き、墨字を書く。
50過ぎに水晶の研磨師になり、晩年は親父と一緒に旋盤工。
落語に囲碁将棋、巨人が負けたらすぐに寝る。
休日のパチンコはおばあちゃんが許した唯一の道楽だった。
お通夜は襖外してぶち抜いて、業者が来て旅立ちの支度。
体拭いて白い死装束着せて、脚絆つけて、鼻に綿詰めて、
薄化粧して、極楽浄土への足袋を履く。
親父が「線香絶やさないでおけよ」
奥の間におじいちゃんを安置し、弟とふたりで寝ずの番。
死人に添い寝は初めてだった。顔も手も真っ白だ。
血の気もないのに、まだおじいちゃんの匂いがした。
次の日、坊さんが三人来て葬式。近所や親戚ひっきりなしに
縁側に挨拶に来て、お袋も悲しんでるヒマはない。
そんで翌日、焼き場へ行って骨になった。
葬儀の儀式、一部始終を初めて見た。ガンジスとは違う。
俺の帰国を待ってた様なおじいちゃんの死だった。
3月17日 俺立川に引っ越すよ。
お袋はもう諦め顔。なんと親父が車で荷物運んでくれた。
「お前の居場所の確認だ」 なるほど・・ありがと。
それからどんちゃん騒ぎの日々が始まった。
学生、無職、アルバイト。皆気楽なもんだ。
昼まで寝て公園散歩して、飯食って陽が落ちれば飲んで、
ギター弾いて、ピアノ弾いて、タイコ叩いてドンジャララ。
タチノースコート、ノウテンキオールスターズ。
4月に入り、そろそろ金もねえしバイトしなきゃな。
「ちょうどいいのがあったぜ」
浜口が探してきた、ハウスクリーニング。
立川基地で、帰国した米兵の空家の掃除。
1日2、3軒やって三千五百円、悪くねえ。
特大ジーパン、子供よりでかいぬいぐるみ、積み木のおもちゃ、
帽子にシャツ。捨てて焼く物をこっそり頂く。
そんで、だだっ広い芝生の庭で弁当食って昼寝。面白え仕事。
でも、5月に急に仕事が減ってこのバイトは終わった。
大阪の大将に電話。 その後どうですか?
「おお、原稿がぼちぼち集まっとる。そろそろ編集やねん。
大阪、きぇーへんか?」
よっしゃ。 次の日大阪、中百舌鳥のマンションへ。
「よーお、元気かあ!よう来たなあ」
遠くから甲高い大将の声。駅で待っててくれた。
玄関入るとシタールやポンチョにけん玉。おもちゃ屋の店先。
大将らしい。部屋には旅帰りの金太郎が泊り込みで本の編集。
「ほな乾杯やな イエイ!」
皆、海外経験者、話は尽きない。飲んで騒いで3日間。
帰り際に大将が
「ほなジーザス、お前ゴア担当やな。ほかは皆行っとるし、
ゴアはお前だけや。 原稿できたらファックスしてな」
立川帰って原稿と写真は2日でできた。
でも、元ドンバとしちゃ主題歌でも作るか。ひっひ
曲は5日で完成。タブラ入れて上出来だ。
録音テープを電話で聞かせたが、1時間格闘してダメ。
電話代もたねえよ。
2日後、テープと譜面と原稿持って大阪、中百舌鳥へ行った。
編集はできたが、問題は製本だ。
「やっぱりプロに頼むか」
「いや、俺達で仕上げる」
結局、カタログのようにバラバラの束になった。
自作自費出版“地球の田舎に旅しよう”編集は“バクシーシ隊”
主題歌は“ヒンドウの子”やった!
本作りも楽しかったが、皆と会えて話できたのが最高。
帰国ショックも社会復帰の違和感も奴等も同じだった。
6月になって突然 奄美から上田が来た。
ウッドベース裸で抱えて電車で来やがった。島んちゅはすげえ。
「キャバレーでもなんでもやります。紹介して下さい」
うっへえ、燃えてる時きゃこういう迫力がある。
こっちが恥ずかしくなる。俺も仕事するか。
で、池袋のジャーマネに5年ぶりに電話。
「おお、ギター居るからバンド組めよ。
そいつベースと組んでるからトリオですぐできるぞ」
相変わらずシー調だ。
「4人で曲はなんでもいい、音も出せる。ハー万パー」
OKしたがタイコセットがねえ。日本出る前売っちまった。
よーっし!お茶の水行って馴染みの楽器屋に話す。
どうせならラディックだ。
絶対15日までに届けろ。36回払い、頭金1万ねじ込んで、
ラディック3点セット32万にパールのスネアとジルジャン
シンバルとしめて40万。ひええ~
6月12日。来たよ来ましたラディック様、待ってました。
箱から出して、ヨーシこの匂い。説明書は英語、モノホンだ。
うっひっひ。眺めながら晩飯食って、朝までかかって分解。
ネジ締め直してピッカピカに磨いてやった。
くーっ、やったぞラディック。シャンペンピンク。
月賦36回。知らねえぞー 払えんのか~あ~あ~
6月16日 事務所に頼んで朝霞までタイコを運ぶ。
ガタガタ揺らすんじゃねえ、ラディックだぞ。 ひっひ
顔も知らねえギターと初対面。曲も決めてねえ。
ギターのガモが適当に始める、ベースの寺角と俺がつける。
こちとらトウシローじゃねえ。これでバッチシ。
そんで半月後。 ぐわーやった、やっちまった、失敗した。
スタンドに錆がきてる。 くっそー
ラディックは?おお、なんとかだいじょぶか。ふう~
やっぱり止めときゃよかった。
野外のガーデンなんかでおろすんじゃなかった。くっそ
磨いてたらイーボが来て
「バンドさん居ないとき客が叩いてますよ」
なーんだとお!てめえ!クーキャに触わらして何やってんだ!
ラディックだぞ、新品だぞ、40万だぞ。ばっきやろ。
シート持ってこい。その日からステージ終わるとシートと
ロープかけてダンボールに“触るな 爆発する”書いた。
冗談じゃねえ。7月で降りた。あ~ラディック、可哀想。
8月 藤本から電話。おお、ひっさしぶりじゃん。
「ロンドンから帰ったって聞いてさ、実はタイコ探してる
バンドがいるんだけど、やってみない?」
やりてえけど、腕はねえよ。金もねえしツラも知っての通りだ。
翌週、立川のハウスに来た。
「今さあ、ここでやってんだ」
ホワイトロック音楽事務所、おお、名刺まで作って。
「話はふたつ来てんだけど、ひとつはアホウドリっていうバンド
もういっこはオフコースっていうバンド。お前日本に居なかった
から知らねえと思うけど、そこそこ売れて来てるバンドだよ。
事務所も今リキいれてるところ」
へえ、どんなバンドよ。
「両方とも一応レコード出してる。アホウドリは青山音楽、
例の事務所だ。オフコースはフォークでタイコいれるの初めて。
どっちもこれからだな。来週ディションがある、聞いとけよ」
LPくれた。聞いたけど・・・。
翌週、呼ばれて四谷のスタジオへ。
2ギターの四人編成。スリーコード2、3曲演ってOK。
ベースの辰巳が推してくれた。
俺の鉢巻気に入ったって、俺も辰巳のTシャツ気に入った。
寺田十三夫と信天翁・・・とりあえず決まった。
1週間で15曲ものにしたが、仕事はスポットだけ。
事務所で覆面したままのデストロイヤー見たり、辰巳と親しい
デビューしたての宇崎さんと会ったりしたが。
やっと9月に初めてのメインコンサート。
花束と一緒に楽屋にツノヒロが来た。顔も体も俺の倍はある。
少年画報の話のあと「トミちゃん、よくまとめたね。
タイコさん、大変だったでしょ、しごかれた?」
・・・トミちゃんだったか。
メリージェーンのスネアは6半のソナーだった。すげえ
10月 仕事は月10本位。家賃払ったら飯と月賦はどうする。
「暮れに外タレと演る事になった。タワーオブパワーだ。
合宿してまとめるよ。ちょっと頑張らなきゃな」
誰だ? 聞いたことねえけど名前はすげえ、精力剤か。
地方のホテルで合宿、1週間缶詰で仕上げた。
でも11月も営業は数本。そして12月の本番になった。
タワーオブパワー、大所帯のゴリゴリ。
リハでタイコ見たら、タムは本皮だ。すげえ
でも俺等は前座、なんだかわからずに終わった。腹減った。
年が明けて75年1月。10日すぎてマーヒ、バイヤだ。
藤本に電話したが留守だった・・そんで、次のリハの日。
俺、ほんと悪いんだけど、辞めます。
辰巳が床にベース放っぽり投げた。
辰巳ごめん。もうこれ以上やれねえ。
2月。 金でも女でもねえ。ましてマンサラは冗談ポイだ。
どうもこりゃ、やっぱり日本にゃ馴染めそうもねえな。
そうだ! 安田さんが奄美に居る。電話してみっか。
「いいよおいでよ」
翌週、鈍行と漁船乗り継いで奄美へ。そんで、名瀬の空家に
住まわしてもらうことになった。
家賃も光熱費も、着る物も交通費もいらねえ。
海は広いな大きいな、月は昇るし陽は沈む。 へへ
歌じゃねえ、これが日常。あるんだ、日本にこういうところが。
パラのダイスだパラダイス。俺中心に地球が回る。
時間はあるけど時計は無い。どこでも歩き、電車は無い。
人も空気も、時間も景色も、高級シルクのようだぜ。
最高じゃねえか! うーっひっひっひ
・・・そんで2年間、住み着いちまった。
ずうずうしにもほどがあった。安田さん、すいません。
(完)
3年ぶりだ。顔は変わってねえが、変わってた。
18の冬、荒れた大学に見切りをつけた俺は、
ダクションの紹介で、当時グループサウンズを組んでた
泉とミミに相鉄西横浜の駅で初めて会った。
バンド名マスカット?グループサウンズじゃねえのか。
まあ学校よりゃいいか、で入った。正味1年、一緒に演った。
奴も色々あったらしい。バンドは辞めてた。
おやじの仕事手伝ってるけど、田舎帰って所帯持つって。
俺より大人だ。積もる話、山ほどして朝まで飲んだ。
2月11日はマーちゃん。彼も大桟橋に見送りに来てくれた。
広島からのバンド仲間。トウマッチの時、泉とミミと野音に
観に行った。怪傑ゾロの帽子かっこよかった。
楽屋で見た対バンのカルメンマキの頬は、透き通っていた。
71年頃、偶然一緒のステージも演った。
俺等はJUNKでプロと一緒に色んなステージ乗ったっけ。
秀ちゃんと良ちゃんと3人でレコード出して、コンサートも
やるって。メジャーデビューはホントだった。
小杉のサテンで旅の写真見せて話をした。ヒッピーに興味が
あるとは意外だった。俺の自慢話に合わせてくれたんだろな。
土産のスペイン火縄ライターを渡した。
2月18日 仁枝さんから電話がきた。
東京に出てくから逢おうぜって。豊橋へ行くつもりだったが、
わざわざ来てくれる、ありがたい。
彼とは72年の夏、アテネのユースで出会って島で野宿した。
デルフィー行ったり、何となくウマが合って、以来続いてる。
巨漢で酒飲みのタビニン、1年先輩。翌日上京した彼の希望で
浅草に行った。アフガンコート着てったら、相変わらずだって
笑われた。
雷門で昼飯食って、旅や人生の話。でも三河弁、ドイツ語より
難しいだら。半分笑ってごまかした。
彼はヨーロッパの前に色々行って、日常と旅のいいバランスを
とってる。俺の様にカルチャーショックや帰国ショックは無い。
次の計画は韓国だって。なんか羨ましい。
2月27日 夜中、震えるほど寒かった。
枕元になにかバサッと落ちた。つかんだらゴキブリだった。
うええ、この冬になんなんだ。
うとうとしてたら、お袋に起こされた。
「起きなさい。おじいちゃんが・・」
おじいちゃんが亡くなった。79歳。お袋の実父、博多生まれ。
若い時、ブラジルに密航して捕まった。
競馬にのめり込み新潟まで馬追っかけた。
刀鍛冶に弟子入りし、琵琶を弾き、墨字を書く。
50過ぎに水晶の研磨師になり、晩年は親父と一緒に旋盤工。
落語に囲碁将棋、巨人が負けたらすぐに寝る。
休日のパチンコはおばあちゃんが許した唯一の道楽だった。
お通夜は襖外してぶち抜いて、業者が来て旅立ちの支度。
体拭いて白い死装束着せて、脚絆つけて、鼻に綿詰めて、
薄化粧して、極楽浄土への足袋を履く。
親父が「線香絶やさないでおけよ」
奥の間におじいちゃんを安置し、弟とふたりで寝ずの番。
死人に添い寝は初めてだった。顔も手も真っ白だ。
血の気もないのに、まだおじいちゃんの匂いがした。
次の日、坊さんが三人来て葬式。近所や親戚ひっきりなしに
縁側に挨拶に来て、お袋も悲しんでるヒマはない。
そんで翌日、焼き場へ行って骨になった。
葬儀の儀式、一部始終を初めて見た。ガンジスとは違う。
俺の帰国を待ってた様なおじいちゃんの死だった。
3月17日 俺立川に引っ越すよ。
お袋はもう諦め顔。なんと親父が車で荷物運んでくれた。
「お前の居場所の確認だ」 なるほど・・ありがと。
それからどんちゃん騒ぎの日々が始まった。
学生、無職、アルバイト。皆気楽なもんだ。
昼まで寝て公園散歩して、飯食って陽が落ちれば飲んで、
ギター弾いて、ピアノ弾いて、タイコ叩いてドンジャララ。
タチノースコート、ノウテンキオールスターズ。
4月に入り、そろそろ金もねえしバイトしなきゃな。
「ちょうどいいのがあったぜ」
浜口が探してきた、ハウスクリーニング。
立川基地で、帰国した米兵の空家の掃除。
1日2、3軒やって三千五百円、悪くねえ。
特大ジーパン、子供よりでかいぬいぐるみ、積み木のおもちゃ、
帽子にシャツ。捨てて焼く物をこっそり頂く。
そんで、だだっ広い芝生の庭で弁当食って昼寝。面白え仕事。
でも、5月に急に仕事が減ってこのバイトは終わった。
大阪の大将に電話。 その後どうですか?
「おお、原稿がぼちぼち集まっとる。そろそろ編集やねん。
大阪、きぇーへんか?」
よっしゃ。 次の日大阪、中百舌鳥のマンションへ。
「よーお、元気かあ!よう来たなあ」
遠くから甲高い大将の声。駅で待っててくれた。
玄関入るとシタールやポンチョにけん玉。おもちゃ屋の店先。
大将らしい。部屋には旅帰りの金太郎が泊り込みで本の編集。
「ほな乾杯やな イエイ!」
皆、海外経験者、話は尽きない。飲んで騒いで3日間。
帰り際に大将が
「ほなジーザス、お前ゴア担当やな。ほかは皆行っとるし、
ゴアはお前だけや。 原稿できたらファックスしてな」
立川帰って原稿と写真は2日でできた。
でも、元ドンバとしちゃ主題歌でも作るか。ひっひ
曲は5日で完成。タブラ入れて上出来だ。
録音テープを電話で聞かせたが、1時間格闘してダメ。
電話代もたねえよ。
2日後、テープと譜面と原稿持って大阪、中百舌鳥へ行った。
編集はできたが、問題は製本だ。
「やっぱりプロに頼むか」
「いや、俺達で仕上げる」
結局、カタログのようにバラバラの束になった。
自作自費出版“地球の田舎に旅しよう”編集は“バクシーシ隊”
主題歌は“ヒンドウの子”やった!
本作りも楽しかったが、皆と会えて話できたのが最高。
帰国ショックも社会復帰の違和感も奴等も同じだった。
6月になって突然 奄美から上田が来た。
ウッドベース裸で抱えて電車で来やがった。島んちゅはすげえ。
「キャバレーでもなんでもやります。紹介して下さい」
うっへえ、燃えてる時きゃこういう迫力がある。
こっちが恥ずかしくなる。俺も仕事するか。
で、池袋のジャーマネに5年ぶりに電話。
「おお、ギター居るからバンド組めよ。
そいつベースと組んでるからトリオですぐできるぞ」
相変わらずシー調だ。
「4人で曲はなんでもいい、音も出せる。ハー万パー」
OKしたがタイコセットがねえ。日本出る前売っちまった。
よーっし!お茶の水行って馴染みの楽器屋に話す。
どうせならラディックだ。
絶対15日までに届けろ。36回払い、頭金1万ねじ込んで、
ラディック3点セット32万にパールのスネアとジルジャン
シンバルとしめて40万。ひええ~
6月12日。来たよ来ましたラディック様、待ってました。
箱から出して、ヨーシこの匂い。説明書は英語、モノホンだ。
うっひっひ。眺めながら晩飯食って、朝までかかって分解。
ネジ締め直してピッカピカに磨いてやった。
くーっ、やったぞラディック。シャンペンピンク。
月賦36回。知らねえぞー 払えんのか~あ~あ~
6月16日 事務所に頼んで朝霞までタイコを運ぶ。
ガタガタ揺らすんじゃねえ、ラディックだぞ。 ひっひ
顔も知らねえギターと初対面。曲も決めてねえ。
ギターのガモが適当に始める、ベースの寺角と俺がつける。
こちとらトウシローじゃねえ。これでバッチシ。
そんで半月後。 ぐわーやった、やっちまった、失敗した。
スタンドに錆がきてる。 くっそー
ラディックは?おお、なんとかだいじょぶか。ふう~
やっぱり止めときゃよかった。
野外のガーデンなんかでおろすんじゃなかった。くっそ
磨いてたらイーボが来て
「バンドさん居ないとき客が叩いてますよ」
なーんだとお!てめえ!クーキャに触わらして何やってんだ!
ラディックだぞ、新品だぞ、40万だぞ。ばっきやろ。
シート持ってこい。その日からステージ終わるとシートと
ロープかけてダンボールに“触るな 爆発する”書いた。
冗談じゃねえ。7月で降りた。あ~ラディック、可哀想。
8月 藤本から電話。おお、ひっさしぶりじゃん。
「ロンドンから帰ったって聞いてさ、実はタイコ探してる
バンドがいるんだけど、やってみない?」
やりてえけど、腕はねえよ。金もねえしツラも知っての通りだ。
翌週、立川のハウスに来た。
「今さあ、ここでやってんだ」
ホワイトロック音楽事務所、おお、名刺まで作って。
「話はふたつ来てんだけど、ひとつはアホウドリっていうバンド
もういっこはオフコースっていうバンド。お前日本に居なかった
から知らねえと思うけど、そこそこ売れて来てるバンドだよ。
事務所も今リキいれてるところ」
へえ、どんなバンドよ。
「両方とも一応レコード出してる。アホウドリは青山音楽、
例の事務所だ。オフコースはフォークでタイコいれるの初めて。
どっちもこれからだな。来週ディションがある、聞いとけよ」
LPくれた。聞いたけど・・・。
翌週、呼ばれて四谷のスタジオへ。
2ギターの四人編成。スリーコード2、3曲演ってOK。
ベースの辰巳が推してくれた。
俺の鉢巻気に入ったって、俺も辰巳のTシャツ気に入った。
寺田十三夫と信天翁・・・とりあえず決まった。
1週間で15曲ものにしたが、仕事はスポットだけ。
事務所で覆面したままのデストロイヤー見たり、辰巳と親しい
デビューしたての宇崎さんと会ったりしたが。
やっと9月に初めてのメインコンサート。
花束と一緒に楽屋にツノヒロが来た。顔も体も俺の倍はある。
少年画報の話のあと「トミちゃん、よくまとめたね。
タイコさん、大変だったでしょ、しごかれた?」
・・・トミちゃんだったか。
メリージェーンのスネアは6半のソナーだった。すげえ
10月 仕事は月10本位。家賃払ったら飯と月賦はどうする。
「暮れに外タレと演る事になった。タワーオブパワーだ。
合宿してまとめるよ。ちょっと頑張らなきゃな」
誰だ? 聞いたことねえけど名前はすげえ、精力剤か。
地方のホテルで合宿、1週間缶詰で仕上げた。
でも11月も営業は数本。そして12月の本番になった。
タワーオブパワー、大所帯のゴリゴリ。
リハでタイコ見たら、タムは本皮だ。すげえ
でも俺等は前座、なんだかわからずに終わった。腹減った。
年が明けて75年1月。10日すぎてマーヒ、バイヤだ。
藤本に電話したが留守だった・・そんで、次のリハの日。
俺、ほんと悪いんだけど、辞めます。
辰巳が床にベース放っぽり投げた。
辰巳ごめん。もうこれ以上やれねえ。
2月。 金でも女でもねえ。ましてマンサラは冗談ポイだ。
どうもこりゃ、やっぱり日本にゃ馴染めそうもねえな。
そうだ! 安田さんが奄美に居る。電話してみっか。
「いいよおいでよ」
翌週、鈍行と漁船乗り継いで奄美へ。そんで、名瀬の空家に
住まわしてもらうことになった。
家賃も光熱費も、着る物も交通費もいらねえ。
海は広いな大きいな、月は昇るし陽は沈む。 へへ
歌じゃねえ、これが日常。あるんだ、日本にこういうところが。
パラのダイスだパラダイス。俺中心に地球が回る。
時間はあるけど時計は無い。どこでも歩き、電車は無い。
人も空気も、時間も景色も、高級シルクのようだぜ。
最高じゃねえか! うーっひっひっひ
・・・そんで2年間、住み着いちまった。
ずうずうしにもほどがあった。安田さん、すいません。
(完)