Dream doctor~心を治す医者~
*
直樹の運転する白いワゴンの後部座席は、妙にテンションの高い浩史とカレンの笑い声で溢れていた。
カレンの隣には、はしゃぎまくる兄に呆れながらも楽しそうにしている陽奈も乗っていた。
突然の電話の相手は、一人の中年女性だった。電話の内容は"獏"に関することであった――。
鳴り響く電話を最初に取ったのは直樹だった。受話器を取っても、なおもはしゃぎ続けるカレンと浩史を、左手を上げ制止する。
ようやく静かになったところで、直樹は口を開いた。
「はい、大橋です。どちら様でしょうか? 」
電話の向こうにいるであろう人物に尋ねると、
「Dream doctorの大橋直樹さんですか? 間違いないですよね? 」
言葉を重ねたのは、聞き覚えのない中年女性の声だった。
「私が大橋直樹ですが……。どうかなさいましたか? 」
「実は……その、夫が眠ったまま目を覚まさなくて……」
彼女は言いづらそうに、語尾を濁しながらそう
言った。
「……"獏"かもしれない……と? 」
直樹の言葉でその場にいる全員が反応した。彼女の依頼とはこうだ。
彼女の名前は森野栄子。家計を助けるためにスーパーで働く、ごく普通の主婦だそうだ。
彼女には夫と十三歳になる娘がいる。夫は工場区で働く平凡な工場員で、お世辞にも裕福とは言えない暮らしだったが、皆仲良く暮らしていたらしい。
そんなある日、一週間ほど前から夫の様子がおかしくなりだしたという。 何を話しても上の空で、栄子や娘が話しかけても「うん」と相槌を打つくらいであった。
それが二日ほど前の朝、仕事の時間になっても起きてこないのを不審に思い、起こしに行ったが、どんなに揺すっても声をかけても目を覚まさないらしい。
その日のうちに医者に診てもらったが、「身体に異常はない。原因は分からない。」と言われたそうだ。
夫が目を覚まさないことを友人に話したところ、「それって"獏"なんじゃない?Dream doctorに診てもらった方がいい」と言われ、屋敷への連絡先を調べ、電話をかけた……ということだった。
―関原彩音の状態とよく似ている。"獏"である可能性はかなり高いな……
話を静かに聞いていた直樹は、彼女が話し終えるのを確認すると口を開いた。
「なるほど……恐らく"獏"の仕業でしょうね。早めに診た方がいいでしょう。住所を教えてもらえますか?助手を連れてすぐ向かいます」
電話を置いている棚の引き出しからメモ帳とペンを取り出し、書き取る準備を整える。
しばらくの沈黙。電話の向こう側の栄子は何も話さない。……いったいどうしたのだろうか。
「……もしもし? 森野さん? 」
問いかけると、栄子は躊躇いがちに口を開いた。
「……あの、うちは貧しくて……その、大した報酬は払えないのですが……大丈夫でしょうか……? 」
―なんだ。そんなことか。
良くないことを言い出すのではないかと思っていた直樹は、肩をすくめた。
「……お金のことは気にしなくていいです。私達はお金のためにDream doctorをやっているわけじゃありませんから」
直樹の言葉に彼女も安心したようだ。安堵のため息が聞こえた。
「ありがとうございます! えっと、家の住所は…………」
栄子の言われた通りの住所をメモしていく。案外ここから近いようだ。車で行けば十分ほどで着く距離だった。
「では、三十分後には到着しますので」
「分かりました。よろしくおねがいします……」
電話の向こうで頭を下げているのが分かるくらいに、想いのこもった声だった。
「失礼します」とだけ答え、直樹は受話器を置いた……。
―そして、今に至る。
「それでこの前ジルさんが来た時に、浩史さんときたら……」
「わーー! カレンちゃん! ストップ! ストップ! 」
隣に座る陽奈にこの前の話を嬉しそうに話そうとするカレンを、向かいに座っていた浩史が大きく手を振り、慌てて止めに入る。
―全く、騒がしい奴らだなぁ……
そんな風に騒がしい二人と陽奈を乗せた車は、メモに書かれた住所へと到着した。
所々、壁にヒビが入った古い一軒家だった。コンクリート造りの家が、一層古く冷たい印象を強めていた。
「ここだ。着いたぞ」
直樹の言葉に浩史とカレンは歓喜の声を上げ、車から降りていく。工場区付近の住宅区には、あまり来たことがないからはしゃいでいるのだろう。
はしゃぐほどの場所でもないと思うのだが……。
二人の後に続き、直樹も運転席の扉を開け車を降りる。一番最後に陽奈も車から降り立った。地面に足をつけた瞬間、きゃっと小さな悲鳴を上げた。
「大丈夫? 陽奈ちゃん」
どうやら先日の大雨で、地面が少しぬかるんでいたようだ。ここの住宅区は、コンクリート造りの家がひしめき合っており、昼間だというのにほとんど日が差しておらず、全体的にじめじめとしていた。
そのため、先日の大雨でぬかるんだ道も乾いていないのだろう。そこに陽奈は足を取られたようだった。
「あはは……全然大丈夫です! 」
少し驚いただけで、怪我などはないらしかった。陽奈は元気良くガッツポーズをしてみせた。……これだけ元気ならば安心だ。
「そうか、良かった」
そんなことを話しているうちに、浩史とカレンの姿が見えなくなっている事に気付いた。
「ん? カレン達は……」
まさかと、家の玄関先に素早く目を向ける。
案の定、二人は既に玄関の前に立ち、今からインターホンを鳴らすところだった。
「おい! お前ら余計なこと……っ! 」
二人が余計なことをする前に止めようと、直樹が叫んだのと同時にカレンがインターホンを鳴らした。
――ピーンポーン………… ガチャ
「はーい、どちら様でしょうか? 」
「私、Dream doctorの大橋直樹の助手であります、カレンともう……」
ガン!!
「お前は余計なことしなくていい!! 」
言いかけたカレンの脳天に、直樹の拳が振り落とされた。
「うわぁぁん!! 痛いじゃないですかぁ! 」
頭を押さえつけながら、玄関先の地面にしゃがみ込むカレン。拳を握り締め、険しい顔を浮かべる直樹。
「おい、直樹早まるな! 」
直樹がキッと浩史の方を睨みつけると、片腕を前に突き出し、近付かせないように壁を作っている。
「……あのー、すみません……。もしもし? 」
―しまった。俺とした事が……。取り乱すとは。
「ゴホン……あぁ、すみません。今のはお気になさらず。ただの雑音だと思って頂ければ」
インターホンに向かい、落ち着き払った声で応える。
「……雑音って、それはあんまりですよ! 」
しゃがみ込んだカレンが直樹の"雑音"という言葉に異議を申し立てる。
そこへすかさず、浩史が口元に人差し指を立て、
「カレンちゃん! しーっ! しーっ! 」
と、静かにするように促す。直樹の苛立ちが彼にも伝わったようだ。今日は随分と物分かりがいい。
「お電話いただいた大橋直樹です。旦那さんが目を覚まさないと聞いてお伺いしました」
しばらくの沈黙の後、玄関の扉の向こうからパタパタと走る音が近付いてくる。
足音が目の前まで迫った時、玄関の扉が鈍い音を響かせながらゆっくりと開いた。
直樹の運転する白いワゴンの後部座席は、妙にテンションの高い浩史とカレンの笑い声で溢れていた。
カレンの隣には、はしゃぎまくる兄に呆れながらも楽しそうにしている陽奈も乗っていた。
突然の電話の相手は、一人の中年女性だった。電話の内容は"獏"に関することであった――。
鳴り響く電話を最初に取ったのは直樹だった。受話器を取っても、なおもはしゃぎ続けるカレンと浩史を、左手を上げ制止する。
ようやく静かになったところで、直樹は口を開いた。
「はい、大橋です。どちら様でしょうか? 」
電話の向こうにいるであろう人物に尋ねると、
「Dream doctorの大橋直樹さんですか? 間違いないですよね? 」
言葉を重ねたのは、聞き覚えのない中年女性の声だった。
「私が大橋直樹ですが……。どうかなさいましたか? 」
「実は……その、夫が眠ったまま目を覚まさなくて……」
彼女は言いづらそうに、語尾を濁しながらそう
言った。
「……"獏"かもしれない……と? 」
直樹の言葉でその場にいる全員が反応した。彼女の依頼とはこうだ。
彼女の名前は森野栄子。家計を助けるためにスーパーで働く、ごく普通の主婦だそうだ。
彼女には夫と十三歳になる娘がいる。夫は工場区で働く平凡な工場員で、お世辞にも裕福とは言えない暮らしだったが、皆仲良く暮らしていたらしい。
そんなある日、一週間ほど前から夫の様子がおかしくなりだしたという。 何を話しても上の空で、栄子や娘が話しかけても「うん」と相槌を打つくらいであった。
それが二日ほど前の朝、仕事の時間になっても起きてこないのを不審に思い、起こしに行ったが、どんなに揺すっても声をかけても目を覚まさないらしい。
その日のうちに医者に診てもらったが、「身体に異常はない。原因は分からない。」と言われたそうだ。
夫が目を覚まさないことを友人に話したところ、「それって"獏"なんじゃない?Dream doctorに診てもらった方がいい」と言われ、屋敷への連絡先を調べ、電話をかけた……ということだった。
―関原彩音の状態とよく似ている。"獏"である可能性はかなり高いな……
話を静かに聞いていた直樹は、彼女が話し終えるのを確認すると口を開いた。
「なるほど……恐らく"獏"の仕業でしょうね。早めに診た方がいいでしょう。住所を教えてもらえますか?助手を連れてすぐ向かいます」
電話を置いている棚の引き出しからメモ帳とペンを取り出し、書き取る準備を整える。
しばらくの沈黙。電話の向こう側の栄子は何も話さない。……いったいどうしたのだろうか。
「……もしもし? 森野さん? 」
問いかけると、栄子は躊躇いがちに口を開いた。
「……あの、うちは貧しくて……その、大した報酬は払えないのですが……大丈夫でしょうか……? 」
―なんだ。そんなことか。
良くないことを言い出すのではないかと思っていた直樹は、肩をすくめた。
「……お金のことは気にしなくていいです。私達はお金のためにDream doctorをやっているわけじゃありませんから」
直樹の言葉に彼女も安心したようだ。安堵のため息が聞こえた。
「ありがとうございます! えっと、家の住所は…………」
栄子の言われた通りの住所をメモしていく。案外ここから近いようだ。車で行けば十分ほどで着く距離だった。
「では、三十分後には到着しますので」
「分かりました。よろしくおねがいします……」
電話の向こうで頭を下げているのが分かるくらいに、想いのこもった声だった。
「失礼します」とだけ答え、直樹は受話器を置いた……。
―そして、今に至る。
「それでこの前ジルさんが来た時に、浩史さんときたら……」
「わーー! カレンちゃん! ストップ! ストップ! 」
隣に座る陽奈にこの前の話を嬉しそうに話そうとするカレンを、向かいに座っていた浩史が大きく手を振り、慌てて止めに入る。
―全く、騒がしい奴らだなぁ……
そんな風に騒がしい二人と陽奈を乗せた車は、メモに書かれた住所へと到着した。
所々、壁にヒビが入った古い一軒家だった。コンクリート造りの家が、一層古く冷たい印象を強めていた。
「ここだ。着いたぞ」
直樹の言葉に浩史とカレンは歓喜の声を上げ、車から降りていく。工場区付近の住宅区には、あまり来たことがないからはしゃいでいるのだろう。
はしゃぐほどの場所でもないと思うのだが……。
二人の後に続き、直樹も運転席の扉を開け車を降りる。一番最後に陽奈も車から降り立った。地面に足をつけた瞬間、きゃっと小さな悲鳴を上げた。
「大丈夫? 陽奈ちゃん」
どうやら先日の大雨で、地面が少しぬかるんでいたようだ。ここの住宅区は、コンクリート造りの家がひしめき合っており、昼間だというのにほとんど日が差しておらず、全体的にじめじめとしていた。
そのため、先日の大雨でぬかるんだ道も乾いていないのだろう。そこに陽奈は足を取られたようだった。
「あはは……全然大丈夫です! 」
少し驚いただけで、怪我などはないらしかった。陽奈は元気良くガッツポーズをしてみせた。……これだけ元気ならば安心だ。
「そうか、良かった」
そんなことを話しているうちに、浩史とカレンの姿が見えなくなっている事に気付いた。
「ん? カレン達は……」
まさかと、家の玄関先に素早く目を向ける。
案の定、二人は既に玄関の前に立ち、今からインターホンを鳴らすところだった。
「おい! お前ら余計なこと……っ! 」
二人が余計なことをする前に止めようと、直樹が叫んだのと同時にカレンがインターホンを鳴らした。
――ピーンポーン………… ガチャ
「はーい、どちら様でしょうか? 」
「私、Dream doctorの大橋直樹の助手であります、カレンともう……」
ガン!!
「お前は余計なことしなくていい!! 」
言いかけたカレンの脳天に、直樹の拳が振り落とされた。
「うわぁぁん!! 痛いじゃないですかぁ! 」
頭を押さえつけながら、玄関先の地面にしゃがみ込むカレン。拳を握り締め、険しい顔を浮かべる直樹。
「おい、直樹早まるな! 」
直樹がキッと浩史の方を睨みつけると、片腕を前に突き出し、近付かせないように壁を作っている。
「……あのー、すみません……。もしもし? 」
―しまった。俺とした事が……。取り乱すとは。
「ゴホン……あぁ、すみません。今のはお気になさらず。ただの雑音だと思って頂ければ」
インターホンに向かい、落ち着き払った声で応える。
「……雑音って、それはあんまりですよ! 」
しゃがみ込んだカレンが直樹の"雑音"という言葉に異議を申し立てる。
そこへすかさず、浩史が口元に人差し指を立て、
「カレンちゃん! しーっ! しーっ! 」
と、静かにするように促す。直樹の苛立ちが彼にも伝わったようだ。今日は随分と物分かりがいい。
「お電話いただいた大橋直樹です。旦那さんが目を覚まさないと聞いてお伺いしました」
しばらくの沈黙の後、玄関の扉の向こうからパタパタと走る音が近付いてくる。
足音が目の前まで迫った時、玄関の扉が鈍い音を響かせながらゆっくりと開いた。