センセイの好きなもの
「相手の方は?」


巧先生の問いかけに、母は静かに首を横に振った。



「妊娠を告げると連絡が取れなくなって…。どうすることも、決心もつかないままお腹は大きくなって…。そんなとき、店の常連だった5つ上の男性からプロポーズされたんです。よく指名してくださる人で、妊娠してお酒が飲めなくなった私をいつも話相手としてつけてくれていたんです」



気がつくと巧先生が手を握ってくれていた。


私の父親はろくでもない人だったんだ…。
私がこうして生きていることを、きっと想像すらしたことがないんだろう。

言葉にならない悔しさがこみ上げてくる。



「紡実を産んでからその人と結婚しました。嫌いじゃなかったし、誰かに縋りたかった…。彼は建設関係の仕事をしていて、優しかったし、紡実の世話もしてくれた。本当の娘のように可愛がってくれました。でもそれは間もなく終わったんです」


母はため息を一つついた。昔を思い出すかのように、遠い目をしている。目の前に私がいるのに、私なんて視界に入っていないかのように。
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