センセイの好きなもの
母が出て行ってからはとにかく不便だった。
洗濯も掃除も食事も、何もかも親父と分担してまかなう。
時々みち子さんが手伝いに来てくれて、そのときだけは家庭的な食事にありつけた。

それから毎年夏休みなどのまとまった休みは、親父の事務所で過ごすことも多くなった。


母からの連絡は一度もなかった。


俺は思春期に入っていて、初恋もした。

だからなのかも知れないけど、もしかしたら母はもう他に好きな人がいて、再婚しているかも知れない。子どももいるかも知れないなんて考えていた。

胸が痛むなんてことはなかった。

俺は何一つ不自由せずに生きていたし、自分が選んでここに残ったのだから。

だけど、母が家を出て行った日の母の表情は今でも憶えている。

俺の手を握り締めた母は泣いていた。肩を震わせて、こぼれる涙を拭うこともせずに真っ直ぐに俺を見つめて言った。


『巧、元気でいてね。必ずまた会おう』
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