カメカミ幸福論
「あの―――――ちょっと、その――――――驚いただけで。ええと、ご苦労さん。じゃあ頼むよ」
「はい」
ぶすっとした顔で一礼して席に戻る。自分のせいで定時に間に合いそうもないと泣きそうになっている新人の後輩だけには笑顔をみせておいて、あとはすっぱりさっぱり無視したんだった。
好奇の目。その中に、ほんの少し混じる、安堵の目。
皆が、ああ、良かったと思っているのがひしひしと伝わって、それはそれで居た堪れなかった。確かにちょっと前の私なら放置しただろう。もしくは、他の人に任せたはずだ。
定時上がりを頑なに守るために仕事には手を抜きまくっていた女が、どうしたのだろう、ほんと。自分でもそう思うくらいに、実に自然に「じゃあ残って片付けよう」と思ったのだった。
きっと、張り切りやで努力家の小暮と、慎重かつ計画的でやはり努力家の美紀ちゃんの影響を受けたのだろうけど。
とにかく、私はすんごく珍しく残業なんてものをして、新人さんに手取り足取りで仕事を教えたのだった。書類を処理し、鍵を閉めて守衛さんに挨拶して会社を出ると、月が光って輝く夜だった。
「亀山さん!お疲れ様でした!ありがとうございました!」
会社の通用口前でそう言って頭を下げる後輩にピラピラと手を振って、私は自転車に跨る。
「帰り、気をつけてよ~」
「はい、亀山さんも!」
今日の月は明るいな、そう思いながら自転車を漕いでいた。小暮は出張で明日まで帰ってこないし、電話くらいはあるかもしれないけれど今晩は一人でのんびりしよう、そう考えていた。