線香花火
序章.
2020年7月ーー
パパ、そういって伸ばされた手は当たり前だが自分のものものより二回りほど小さく、そして柔らかい。俺の姿を見るなり駆け寄り、伸ばしてきた白い両手を掴むことなく俺は柔らかくてまだ軽い身体を抱き上げた。
スーツにシワが寄ったが元よりくたびれていたからそんなことは気にならない。どうせそろそろ買い換えようと思っていたものだった。
それよりもとにかくこの小さな幸せにの塊を抱き締めなくてはならなあと思った。擦ったせいか赤くなった目もとにただただ愛しさが募っていく。
「遅くなってしまいすみませんでした」
「大丈夫ですよ。だけど叶夏(ようか)ちゃん、パパは絶対来てくれるから起きて待ってるんだーって聞かなくて」
すっかり俺の腕のなかに居場所を見つけた娘の名前を咎めるように呼べば、「だって、」と涙目で見上げられる。きっとこの子はそうすれば俺がこれ以上強く言えないことをわかっている。それをわかっていて強く言えない俺はやっぱり甘いのだろう。
娘は今の俺のすべてだ。この子がいなくなったら今度こそ俺は戻れない場所まで堕ちていくのだろうとすら思う。だけど、この子さえいればどんなことも乗り越えていけるとも思っている。
「だってパパやくそくしたもの。ぜったいようかのことむかえにくるって。だからまってたの!」
「そっか、ありがとな」
俺の髪とは対照的なほど真っ黒で、癖のない髪を撫で付ければ叶夏は本当にきれいに笑う。俺もたいがい親バカだ。自分の娘が可愛くて仕方ない。ましてやこの子は俺ではなく彼女にそっくりだった。
俺たちのやりとりを見つめていた女は俺の手が離れた叶夏の頭に手を伸ばすと「また明日も遊ぼうね」といって撫でた。やっぱり叶夏は嬉しそうに笑ったが、小さく首を横に降った。
「あしたはママにあいにいくの。だからせんせいにはあえないの」
「叶夏ちゃんのママに?」
「そうだよ」
女は不思議そうに俺を見上げ、俺は欲してるだろう言葉を口にすることはなく、ただ首を横に振った。女は不満そうな顔をしたようにも、特になんの変化もなかったみえる。
心なしか重くなった腕の中に視線を落とせば陽菓の頭がぐらぐらと危なげに揺れていた。数えて十秒程度で規則正しい寝息が聞こえてきて、子供は寝つきがいいなと思わず笑みがこぼれた。
俺は小さな身体を抱き抱えなおすと空いた片手で地面に置いた鞄を持ちあげた。その一連の動きをしている間も女の視線は俺を捉えている。
「ではまた明後日、よろしくお願いします」
「え...あ、はい。お待ちしていますね」
「それでは失礼します」
間違っても叶夏を起こさないように頭を下げれば女は叶夏に向けるのとは別の笑みを俺にむける。女は前に自分は独身で、母親とは血の繋がりはないが姉妹のように仲がいいのだと漏らしていた。
俺は目の前の女が望んでいることを理解している、といえば「あんたは自意識過剰なのよ。ほんとそういうところ、大っ嫌い」と間違いなく言ってくる幼馴染みの顔が浮かび、託児所に背中を向けた俺の口許は緩んだ。
俺の勤める学校と託児所の最寄り駅の屋根が見えた時、ズボンのポケットに入れている携帯端末が震えた。バックをもつ手でそれを開いて表示されたのは名字の変わった幼馴染みのフルネームだった。
まるで有無を言わせないメールの内容にため息をついてみたものの、心までは曇ることはなかった。「明日はチョコレートケーキの気分」というメールは無意味な文面じゃない。
了解とだけ返すと俺はうっすらと雲のひろがる空を見上げた。残念なことにここは俺の住む街より星空が綺麗じゃない。かといって空気がよどんでるわけでもない。たんに周りが明るいだけだった。
思わず漏れた二回目のため息には少しだけ複雑な感情が籠っていた。送信完了の画面から切り替わり、ホーム画面に現れたのは今よりすこし餓鬼臭い自分と、その俺に抱きしめられて幸せそうに微笑む女の写真だ。その上に記されたデジタル時計が日付が変わったことを俺に教えてくれた。
「...おかえり、陽菓(ようか)。待ってたよ」
画面の女は色褪せることを、時間は進むことをもう知らない。だけど俺の世界はもう二度と色を失うことはない。
目を閉じれば今でも思い出すことができた。この写真を撮った日のことも、そして色をなくしていた日々のことも。
世間が二度目の東京オリンピックに沸き上がってるなか、俺は腕のなかで眠る叶夏を抱きしめ、また少しだけ"陽菓"と離れていった。