Cross Over
愛情
あれから、
莉菜からの連絡はない。
もう完全に俺のことは考えていないのかもしれない。
いや、
それもそうだろう。
最後に会ったその時を思い出しながら、
会社を出て車に乗り、家路に向かう。
あんな突き離し方をすれば、
誰だって嫌いになるだろう。
これでいいと思っているはずなのに。
あの時の莉菜の表情ばかり頭に残る。
俺は何をしても、
あいつを傷付けてばっかりだったな。
莉菜は、
記憶をなくす前、なくした後、
どちらにせよ少しでも、
俺といて幸せだったのだろうか。
楽しいと、嬉しいと思ったのだろうか。
莉菜の笑顔を思い出す。
気付いたらマンションの駐車場に着いていた。
・・もう着いたのか。
あの日から俺の頭は普通じゃない。
莉菜のことばかり考えている。
もう連絡は来てないし、自分から突き離し、これでいいと思っているのに。
頭は莉菜のことばかり蘇らせる。
好きなんだ。
自分でわかっている。
俺は莉菜を。
俺はまだ、莉菜を好きなんだ。
マンションのエレベーターを降り、自分の部屋の階の通路を曲がったとき、
部屋の前に座り込んでいる人影に気付いた。
ゆっくり近付くと、足音に顔を上げた。
『・・・圭。何してんだこんなとこで。』
扉の前でしゃがみこんでいた圭が、俺の顔を見て微笑み、ゆっくり立ち上がる。
『おかえり。遅くまでご苦労様。』
いつものラフな格好にジーンズ。
髪をゆっくりかきあげながら、
ふっと安心したような微笑みを向ける彼女を、軽くため息をつきながら、部屋の中に通した。
『連絡せず待ってて、今日俺が帰ってこなかったらどうしてたんだよ。』
スーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めながら冷蔵庫を開ける。
『ふふふ。ずっと待ってた。別にあたしを待ってる人なんて、いないもの。』
俺の後ろで圭が言う。
いないって。
お前には男がいるだろう。
・・また喧嘩でもしたのか。
そう思いながら、圭にビール缶を渡す。
ビール缶を受け取り、ダイニングのテーブルまで歩いた圭が、くるりと振り返り、唐突に言った。
『別れたの。彼と。』
圭の言葉が聞こえた途端、ビール缶を開けていた手を一瞬止めたが、すぐにまた手を動かした。
『・・・そうか。』
結婚の約束までしていたのに別れるとは。
何かあったんだろうが、
今は人のことを聞く余裕が、俺にはなかった。
クスクスと圭が笑う。
『思った通りの返答』
笑いながらビールの缶を開ける。
笑っている圭をそのままに、
ビールを飲みながら、リビングのソファに座る。
『彼女とうまくいってる?』
ダイニングテーブルに寄りかかるようにしながら、
こちらを見て圭が問う。
『いるって言ってねえだろ。』
ふと、莉菜の笑顔が頭をよぎる。
くそ・・駄目だ。
あいつのことが頭から離れない。
俺はあいつに何をしてやれたんだろう。
もっと一緒に居たかった。
ずっと傍にいたかった。
離れたほうがいいと思ったのは、莉菜を想った故の結果だ。
それは今も変わってない。
だが。
俺の気持ちはそうじゃない。
離れても離れても、
それでも俺は莉菜が好きだ。
その気持ちだけは、どんなことになろうとも変わることはない。
気付けばテーブルで頭を抱えていた。
その時、圭がそっと近くに寄り添ってきた。
『俊・・』
圭が俺の手を掴んで、顔を覗き込んでくる。
そして、そっと唇を重ねようと近付いてきた。
その時。
反射的に、
圭から顔を背けた。
『・・・』
驚いたように圭の動きが止まる。
自分の行動にはっとし、
そのあとため息をつき、小さく圭に向かってつぶやく。
『・・すまない。今日はもう、帰ってくれ。』
圭は、
俺を見つめたまま動かなかった。
軽く息をつく。
『圭・・』
帰ることを促そうと、顔を向けた瞬間、
圭が俺の胸にぎゅっと抱きついた。
・・・・
『・・・あたしじゃ駄目なの・・?
あたしじゃ、俊の傷を癒してあげられない・・?』
細い腕が力を込める。
圭の言葉と姿に、驚いた。
いつも余裕のある雰囲気で近寄ってくる姿が、今日はいつもと違うように思えた。
『・・圭。そういうことじゃないんだ。』
『・・じゃあどういうこと?』
体を離すようにした俺に、圭が合間を入れずに聞く。
・・・・
『・・俊が傷付いてるなら、あたしが代わりに癒すから。だから・・』
圭が言葉をつなげる。その言葉を遮った。
『駄目なんだよ』
俺の言葉に
圭が息を止めたように俺を見つめる。
『あいつ以外じゃきっと。・・もう、だめなんだ。』
圭から目をそらしながら、つぶやいた。
・・・
しばらく沈黙が続いた。
その沈黙を破り、
圭が一言、驚く言葉をつぶやいた。
『・・・その子だと思っていいから。』
うつむいていたが、
突然の言葉に目を見開き、圭を見る。
『圭・・』
『あたしだと思わなくていい・・っ。その子だと思っていいから・・』
圭の声が段々と震える。
『おい・・・』
小さくため息をつき、圭に言葉を返す。
『・・・いくらなんでも。そんなことできるわけねえだろ。』
うつむいたままの圭に、呆れたように言葉を続けながら立ち上がる。
『・・お前別れて気が動転してんだよ。ちょっと落ち着いて、今日はもう帰・・・』
圭を立ち上がらせようと腕を掴む。
その俺を、
圭の言葉が遮った。
『どうしてっ・・・?どうしてできないの・・?』
うつむいたまま震える圭の言葉に、立ち上がらせようとした動きを止める。
その瞬間、涙を流した圭が俺を見上げて叫んだ。
『あたしはっ・・俊じゃなきゃだめなのっ・・!もう俊じゃなきゃ・・もうだめなのっ・・っ・・!』
いつも冷静な圭が取り乱す。
その姿に驚き、言葉に詰まる。
『おい・・圭っ・・』
『あたしがその子になって俊を受け止めるから・・っ!』
『だめだ。』
『どうして・・っ!?』
圭が涙をこぼしながら、叫ぶ。
『・・名前を呼んでしまう。今の俺は、圭じゃない名前を呼んでしまう。それでもいいのか?』
圭を見て言う。
『・・それでもいい。』
『おい・・』
『それでもいいっ・・!俊と居れるならそれでもいいからっ・・・!』
顔に手をあて、声をあげて、圭はそのまま泣き崩れた。
声を
出すことができなかった。
ーーーー。
いつも冷静な圭の、泣き声が部屋に響く。
隣りで何もできず、何も言えず、その声を聞いていた。
これだけ体を重ねていながら、
取り乱した圭を見て、初めて圭の気持ちに気が付いた。
圭がそんな風に自分を見ていたと、
そんなことは微塵も考えたことがなかった。
俺は、
こんなに想っていた圭を全くそんな目で見ていなかった。
なのに、
圭は今までずっと俺のことを。
隣にいる圭を見る。
床に座ったまま壁に寄りかかり、顔に手をあて、髪をくしゃくしゃにしながら圭は泣いていた。
ズキンと重く、胸が傷んだ。
息をつき、
取り乱している圭を、静かに抱き寄せた。
『・・悪かった。ずっと、気がつかなくて』
圭の体は、泣きながら震えていた。
『でも・・・』
言葉を続ける。
『もう圭を抱くことはできないし、圭の気持ちには応えられない。・・今の俺の中には、他のやつがいるんだ。』
静かにつぶやいた。
ーーーー。
どれくらいの時間が経っただろう。
まだ落ち着かない涙をおさえながら、圭が顔をあげた。
その顔を見る。
顔を手で覆っていたが、しばらくして、
細い指で涙を拭い、困ったようにふっと笑って圭が顔をあげた。
『・・・結婚までやめちゃったのに、振られちゃったか。』
俺から目をそらしたまま、赤くなった目を細めて諦めたように微笑んだ。
そのいつもの圭の優しい微笑みに、
掴まれたように胸が苦しくなった。
『ごめんね。急に押し掛けて。』
圭がゆっくり立ち上がる。
『行くね。』
玄関に立ち、靴をはく姿を見つめる。
『・・・そんな顔しないで。』
ふっと笑いながら、圭が俺の頬に手を当てる。
『・・俊は不器用だから。なかなか相手に思いが伝わらないから。まっすぐ相手にぶつからなきゃだめだよ。』
微笑みながら、でも力強く言う。
『その子の幸せも大事だけど、自分が幸せに思うのは何かを。しっかり考えて。』
頬から手を離し、圭がつぶやいた。
『圭。・・今まで、ごめんな。・・ありがとう』
ふっと、圭が笑った。
『あたしこそ。ありがとう。』
その瞬間、笑っていた圭の顔が一瞬歪んだ。
また目に涙が滲んだように見えた。
だが、次の瞬間、
涙を浮かべたままふっと笑って、俺に手をふった。
そして、
玄関から圭が出ていき、ゆっくり、扉が閉まった。
『・・・・っ』
閉まった扉のすぐ前で、頭を抱えてしゃがみこんだ。
冷静な圭の取り乱した姿。
あんな風にさせるまで、俺は圭の気持ちに気付かなかった。
そして、
最後の言葉。
相手を見てなかったのは、俺だけだった。
圭はしっかり、
俺のことを見ていた。
圭の想いに、
優しさに、
自分の情けなさに、
涙が
止まらなかった。