Cross Over




『あら、さすが。全く衰え知らずね♪』



白い上品なブラウスに、ひらひらとしたロングスカートをふわりとさせて、
講師の先生が微笑む。





久しぶりのレッスン。講師の先生は私からのレッスン再開を、快く引き受けてくれた。



『すいません先生。日曜なのに。』




ピアノから視線をそらし、先生のほうを見上げる。



『謝るのは私のほうよ。昨日連絡をもらって、じゃあ明日すぐ来れるかしらって、急に付き合わせたのは私のほうだもの。』



優しい笑みで先生はこちらを見る。




落ち着いた優しい雰囲気のこの女性は、私がこの世で一番尊敬している人だ。




先生は、音大を卒業したあとプロのピアニストとして輝かしい成績を残し、海外でも活躍の名を残した偉大なピアニストだ。



思うように動かなくなった小指の怪我で現役は引退したものの、たまに先生が聴かせてくれるその演奏は、今でも輝きを放っている。




久しぶりの私の演奏を聴き、何やら一人言をつぶやきながら、楽しそうに楽譜をめくっている先生を見つめる。



少しフワフワとした天然なところがあるが、そのピアニストとしての技術、ピアノと向き合う姿勢。

そして、その全てを包み込むような優しい雰囲気に、私はピアニストとしても一人の女性としても、先生を尊敬していた。





『こんなにピアノに触れてない期間が長かったのは始めてかもしれません。でも。やっぱりピアノは楽しいです。弾いてると無心になるっていうか。』





鍵盤を見つめる。





ピアノを弾いてると、いろんなことが浄化されていくように心が落ち着く。



私にとってピアノは心の支えになっている。




久しぶりの鍵盤の感触。
心地よい音色に、自分にとってのピアノの存在の大きさ。
そして、大切さを改めて実感した。






『実はね?』





私の話しに目を細めて微笑んでいた先生が、一枚の書類を手に取る。




『黒川さんから連絡をもらって、これをすぐに伝えたくて、今日、急だけど来れないかって誘ったのはこれを見せたかったからなの。』




そう言いながら、差し出された書類を見る。







これは・・・




書類には

コンクールの案内が書かれていた。







『実はこのコンクールの大トリに、黒川さんが推薦されててね。』




え?



先生の顔を見上げる。





『この前のコンクールで審査員賞をもらったあなたの演奏が評価されてね。今回のトリは黒川さんにってお話しが来てるの。』




嬉しそうに手を合わせながら先生が微笑えむ。





私が・・・コンクールのトリを?




それは夢のような話だった。



社会人の部門はコンクールの中でも最後を飾る大きな枠だ。その中でのトリを努めることは、夢のまた夢に見ていたようなことだった。





『でも私・・・』





書類の日付に目をやる。




コンクールは一ヶ月後だった。







『あと一ヶ月で、仕上げることなんて、できるでしょうか・・』





不安げに肩を落とす。





『大丈夫よ』




先生が肩に手を置く。




『今日の黒川さんを見て、私確信したの。しばらく鍵盤に触れていなくても、演奏技術は全く衰えてないし。プロになることを私がお薦めしたくらいの子だもの。それは、何も心配なしね。・・・それに』




先生は笑みを向けたあと、そっと自分の胸に手を当てて、言葉を続けた。





『気持ちも。』






『・・・気持ち?』





見上げると、先生は静かにうなずいた。






『今のあなたの音色からは、以前にはない何か強い意思を感じる。』




先生の言葉にはっとした。







『誰かを想って、弾いているのね?』






先生の言葉に目を見開き、固まっていると、


先生はとても優しい微笑みを浮かべていた。





『その想いがあるなら、きっと素晴らしい演奏になる。それだけで、十分。あなたはきっと今までで一番、良い音を奏でられるわ。彼にとっても。そして、自分にとっても。』






にこっと微笑えんだ先生の嬉しそうな笑みに、心がふっとほぐされたような気がした。




『先生あたしっ・・頑張りますっ。よろしくお願いします。』




椅子に座りながら頭をさげた。





『あなたならできるわっ。一緒に、楽しくっ。成功させましょう。』





そうと決まれば曲なんだけどー・・、
と言いながら楽譜をめくるルンルン気分な先生を見つめながら、
張り切る気持ちをしっかり胸に秘めて、楽譜に視線を落とした。


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