おやすみを言う前に
「今日バイト?」
「うん。」
「早よ帰れたら迎えに行くわ。後で電話かメールする。」
「ありがとう。」
玄関で拓馬が出社するのを見送る。たいてい私の方が家を出るのが遅いから、見送りは日常と化している。しかし、同棲を始めた頃はこんな細やかなひとつひとつが、新妻みたいでくすぐったかった。
靴を履いて鞄を手にした拓馬がドアを開ける直前に振り返った。
頬に手がふれたと思ったら、軽く唇を合わせられた。歯磨きしたてのミントが香る。
「いってきます。」
「いってらっしゃい。」
ドアが閉まるまで後ろ姿を見届けて、すぐに鍵を掛ける。防犯については拓馬からうるさく言われているのだ。
ここだけ切り取ったらなんの問題もない。大きな喧嘩をしたこともない。
一度だけ、ただ一度だけ、本気で怒られたことがあるくらい。