おやすみを言う前に

「今日バイト?」

「うん。」

「早よ帰れたら迎えに行くわ。後で電話かメールする。」

「ありがとう。」


玄関で拓馬が出社するのを見送る。たいてい私の方が家を出るのが遅いから、見送りは日常と化している。しかし、同棲を始めた頃はこんな細やかなひとつひとつが、新妻みたいでくすぐったかった。

靴を履いて鞄を手にした拓馬がドアを開ける直前に振り返った。

頬に手がふれたと思ったら、軽く唇を合わせられた。歯磨きしたてのミントが香る。


「いってきます。」

「いってらっしゃい。」


ドアが閉まるまで後ろ姿を見届けて、すぐに鍵を掛ける。防犯については拓馬からうるさく言われているのだ。

ここだけ切り取ったらなんの問題もない。大きな喧嘩をしたこともない。

一度だけ、ただ一度だけ、本気で怒られたことがあるくらい。
< 51 / 89 >

この作品をシェア

pagetop