呉服屋の若旦那に恋しました
俺の知らない人と、
普通に恋をして、
普通に結婚して、
俺の知らない街で、
普通の暮らしをして、
普通の幸せを築いて、
俺の知らない衣都の一面が増えていって、
それが当たり前になっていって、
いつか俺のことを年に数回しか思い出さなくなる。
それがきっと一番自然で、一番望まれている事なのかもしれない。
相手を思って離れられるのは、それくらい相手を大切に思っているからだと、隆史さんも言っていた。
「五郎、ただいま」
その日の仕事はかなり長く感じた。
俺は、早々に部屋着に着替え、今日一日の濃すぎる出来事を振り返った。
まさか美鈴さんが、あんなに深い所まで入ってくるとは思ってもみなかった。
こんなに気疲れした日は久々だった。
俺は、自室に敷きっぱなしだった布団にばたっと倒れこんだ。布団を敷きっぱなしにしたなんて初めてだった。
なんだか外で五郎がうるさく鳴いている。餌も水ももうあげたのに……。
夕飯を食べる気にもなれないほど、俺は心身ともに疲れ果てていた。
いつもならここで衣都がテレビを見に来て、疲れてるって言うのに訳の分からないドラマを観てキャーキャー騒ぐんだ。
はやく寝ろって言ってもきかなくて。俺がニュースにかえると怒って。リモコンの取り合いになって。
疲れてるのに、あのやり取りが無いと寂しいのはなぜだろう。
部屋はしんと静まり返っていて、相変わらず五郎は鳴いているし、虫の声はうるさい。
布団は昨日干していないからかたいし、衣都が五郎を相手してくれないから五郎が鳴きやまない。
いっそ五郎が寂しがってると言えば帰って来てくれるのか?
なんて、寝ているとバカなことを考えてしまうので、俺はすくっと立ち上がり日課である日記をつけることにした。
……しかし、全く文が頭に浮かばない。俺は、“今日も衣都がいない”とだけ書いて、日記を閉じた。
しかし、乱暴に引き出しにしまったせいで、何かが挟まってちゃんとしまらなかった。
俺は苛立ちながらその原因であるものを取った。