呉服屋の若旦那に恋しました

3歳の時の記憶なんて、殆ど無いに等しい。

けれど、あの夏の出来事は、今も脳に張り付いている。


「お母さん、今ちょっと大きな怪我をしてな、入院することになったんや」

「おかあさん、怪我したの? 泣いてない? 痛い? 衣都もお見舞いに行きたい」

「大丈夫や、今はちょっと事情があって会えないけど、少ししたら一緒にお見舞いに行こうな」


そう言って父が、優しく私の頭を撫でた。

その前日、一本の電話がかかってきて、父は、私と藍ちゃんを残して、血相を変えて家を出て行った。

あんなに慌てている父は初めて見た。それなのに、今日は怖いくらい落ち着いた声で私を宥めた。

父は、また私と藍ちゃんを家に残して、病院に向かった。

……きっともう、幼い私達には見せられないような姿だったのだろう。

もちろんその時は何も意味が分からず、藍ちゃんはこの世の終わりのような顔をしていた。


「藍ちゃん……、お母さん、大丈夫かな?」

「許さない……絶対……」

「藍ちゃん………?」


なんだか怖かった。

藍ちゃんはその時12歳で、きっと私以上に事の事態を把握していたのだろう。

でも彼女はまだそれを私に説明できるほど大人ではなかったし、冷静ではなかった。

私は、なんだかその空間にいることが怖くなって、家を飛び出た。


お母さん、大丈夫かな。凄く心配だな。会いたいよ。

お父さん、凄く顔色が悪かった。どうしたんだろう。一体何があったのだろう。

藍ちゃんは、どうしてあんなに暗い顔をしているの? 私だけが何も分かっていないの?


ちっちゃい頭で、私は必死に色々なことを考えた。

答えは分からなくても、なんとなくなら人の表情で空気を読める。

幼いながらに、今は非常事態なのだと、理解していた。


< 129 / 221 >

この作品をシェア

pagetop