呉服屋の若旦那に恋しました
3歳の時の記憶なんて、殆ど無いに等しい。
けれど、あの夏の出来事は、今も脳に張り付いている。
「お母さん、今ちょっと大きな怪我をしてな、入院することになったんや」
「おかあさん、怪我したの? 泣いてない? 痛い? 衣都もお見舞いに行きたい」
「大丈夫や、今はちょっと事情があって会えないけど、少ししたら一緒にお見舞いに行こうな」
そう言って父が、優しく私の頭を撫でた。
その前日、一本の電話がかかってきて、父は、私と藍ちゃんを残して、血相を変えて家を出て行った。
あんなに慌てている父は初めて見た。それなのに、今日は怖いくらい落ち着いた声で私を宥めた。
父は、また私と藍ちゃんを家に残して、病院に向かった。
……きっともう、幼い私達には見せられないような姿だったのだろう。
もちろんその時は何も意味が分からず、藍ちゃんはこの世の終わりのような顔をしていた。
「藍ちゃん……、お母さん、大丈夫かな?」
「許さない……絶対……」
「藍ちゃん………?」
なんだか怖かった。
藍ちゃんはその時12歳で、きっと私以上に事の事態を把握していたのだろう。
でも彼女はまだそれを私に説明できるほど大人ではなかったし、冷静ではなかった。
私は、なんだかその空間にいることが怖くなって、家を飛び出た。
お母さん、大丈夫かな。凄く心配だな。会いたいよ。
お父さん、凄く顔色が悪かった。どうしたんだろう。一体何があったのだろう。
藍ちゃんは、どうしてあんなに暗い顔をしているの? 私だけが何も分かっていないの?
ちっちゃい頭で、私は必死に色々なことを考えた。
答えは分からなくても、なんとなくなら人の表情で空気を読める。
幼いながらに、今は非常事態なのだと、理解していた。