呉服屋の若旦那に恋しました
フロントマンの指示に従って書類を書いていると、衣都が俺の服の裾を掴んだ。
振り返ると、衣都は青ざめた顔つきで、恐る恐る疑問をぶつけてきた。
「待って……、志貴と部屋一緒なの……?」
「当たり前だろ。贅沢言うな」
「………」
そう冷たく答えると、衣都はわなわなと身を震わせた。なんだこいつ失礼な奴だな。
別に取って食おうとか思ってないわ。さすがに。……たぶん。うん。
「行くぞ衣都」
「うわあああ折角の癒しの旅がー!」
「24時間俺と一緒で嬉しいだろー」
「うわあああまじで嫌だあああ」
「お前俺が傷つかない人間だとでも思ってるの……?」
衣都の母親は、住宅街から離れた静かな場所に眠っている。
空はどこまでも澄み切っていて、なんだか気持ち良かった。
本堂のご本尊をお参りしてから、手桶と柄杓を借りた。手桶に水を入れて、衣都の母親――薫さんが眠っている場所まできた。
「お母さん、久しぶり」
衣都は、そう言ってからお墓の掃除を丁寧に行った。
すでにお墓には新しいお花とお供え物があり、俺たちが来る前に誰かがすでに来ていた様子だった(衣都のお父さんは既に行ったと言っていた)。
薫さんは、大好きだった祖母と同じお墓に入りたいと生前から言っていたらしく、京都の近衛家のお墓ではなく、吉瀬家のお墓に眠っている。
衣都が、線香を点火して香炉に立てた。線香の香りがあたりをさまよい、鼻孔を擽った。
それから、墓石にたっぷりと水をかけ、正面に向かい静かに合掌した。
冥福を祈りながら、今、衣都が心の内でどんなことを報告しているのか……。手に数珠をかけ、胸の前で手を合わせ目を閉じている彼女の横で、俺は過去のことを思い出していた。
……薫さんは、とても穏やかで優しい人だった。
余所の家の子も、自分の子どもと同じくらい心配できる、そんな優しい人だった。
隆史さんが結婚をしたと聞いたときは驚いた。あの、頑固で自分に厳しいあの隆史さんが、まさかこんなに綺麗な奥さんをもらえるとは……。
7歳ながらに、俺は薫さんをとても美しいと思っていた。
薫さんはシングルマザーで、俺より1つ上の子ども……藍さんがいた。よく笑う子だったらしいが、新しい家族や土地に慣れていないせいか、あまり笑顔を見たことはなかった。
……ほどなくして衣都が生まれた。薫さんが退院したという知らせを聞いたとき、俺は学校から帰ってすっ飛んで近衛家に行ったことを覚えている。
柔らかくて、あたたかくて、小さな手にひとさし指をぎゅっと包み込まれたとき、何とも表現しがたい気持ちになった。