喩えその時が来たとしても
その憧れが恋心に変わるまで、大して時間は掛からなかった。先輩はごく普通の体型とはいえ、背の小さい私と並んだら充分以上に大きかったしそれに、もひとつ外せないのがその声。何て言うか優しくて、深みが有って、ちょっと低めなセクシーボイスに私はメロメロなの。
でも……不満なのは私をちっとも女として見てくれない事。勿論今まで必要以上に女を意識され、それを疎ましく思っていた私だから、勝手な言い分だって解ってはいるけど、仕事に恋愛感情を持ち込むべきではないけど……せめて妹位のポジションにはなりたい。今朝のミルクティーはまさに千載一遇のチャンスだったかも知れないのに!
「はい、新規始めま~す。書類は手元に渡ってますか?」
そう、この佐藤先輩とウッカリ野郎のせいで台無し。佐藤先輩も声は低いんだけどこもり過ぎ。そして相馬の声はハスキー過ぎて、言ってみればあれは雑音。耳障りなノイズでしかない。
「え~、説明を始めます。書類を提出してない方は書きながらでいいので聞いて下さい。お施主さんは印刷会社の……」
書き上がった書類を集め、記載事項に誤りや漏れがないか確認する。ああ、早く終わらないかしら。早く岡崎先輩と一緒に仕事したい。……と、思っていたその時。そこにあの心地好いセクシーボイスが!
「佐藤さん。新規は終わったかい? もう馬場さんを借りてもいい?」
ナンテびったしのタイミングなの?! もう私と岡崎先輩ったら、運命の赤い糸で結ばれてるんじゃないかしらっ! 佐藤先輩は私を離したくないみたいだったけど、朝イチから厨房の墨出しだっていうのを曲げて新規の手伝いに駆り出したんだから文句は言えない筈よね。
「ああ、もう大丈夫です」
ほらね。
「悪いね。じゃあ馬場さん、俺と来てくれる?」
そう言う岡崎先輩の声はまた堪らなく優しく私のハートを鷲掴みにするんだけど……職人さん達の手前、目がハートになってるのを覚られる訳には行かない。
「はい解りました、岡崎さん」
あくまでもビジネスライクにキビキビと返事をして、ずだ袋に用意した墨出し道具を肩にからげ、事務所の入り口に掛けてあるヘルメットと安全帯を取りに階段を駆け上がる。
「馬場さんか。今日も元気がいいな。頑張れよ」
「はい所ちょ……高橋さん。頑張ります」
経済新聞を読みながらコーヒーを啜る高橋所長に頭を下げると私は事務所を後にした。