喩えその時が来たとしても
或る時、ふと先輩が使っていたのと同じコロンの匂いがした。つい振り返り、その姿を探している私が居た。狂ったように彼を求めていたせいなのでしょう、そこに有るはずの無い匂いを感じてしまった。
そしてまた或る時は、優しく語り掛けるあのセクシーボイスが聞こえた気がした。私はその声の主を求め、見知らぬ人で溢れかえる雑踏をさまよった。それが幻聴でも現実でも、どちらでも良かった。ほんの僅かでも、喩え幻でも、先輩を感じていたかった。
あの日先輩から別れを告げられられた私は、次の日もいつものように出勤した。ああは言われたけれど、根気よく説得すれば先輩の気持ちを変えられると、半ば軽い考えを持っていたから。
でも、一番で現場に着いた筈なのに、大沼所長の机にはもう彼の辞表が置いてあった。きっと私よりずっと早く現場に入り、辞表を置いて行ったんでしょう。襲い来る胸騒ぎと闘いながら何とか漸く一日の仕事を終え、急いで先輩の部屋を訪れると、合い鍵が合わずに固く扉は閉ざされていた。そればかりか、表に置いてあった洗濯機も、OKAZAKIの表札も無くなっていた。
不動産屋で聞いてみても転居先は解らない。会社に問い合わせても「辞めた人間の個人情報だから」と取り合っても貰えなかった。
先輩は降り掛かるだろう厄災から私を守る為に、自ら姿を隠したんだ。そう、あのままだったら多分先輩の想像通りになったでしょう。私は別れることを固辞し、彼に付きまとったに違いない。だから先輩は連絡手段を絶つことで完全に私との関係を断ち切ったんだ。でも……二人の知恵を出し合えば、彼の運袋を閉じる方法が見つかったかも知れないじゃない。お兄様がまた転生して、いい情報を仕入れて来て下さったかも知れないじゃない。
一体貴方は私の何を見ていたの? やっぱり他の男達と同じように、私の胸ばかりを見ていたの? 付き合うって、セックスをする為だけの関係じゃないはずよ? それとも、貴方は只、自分の昂りを吐き出す相手が居さえすれば良かったの? 私はそれだけのモノでしかなかったの?!
私はそうやっていつも心の中で先輩を責めていた。『憎いあの人』と思うことで、ポッカリと空(ア)いた先輩ロスの隙間を埋めようともがいていた。
「……でも……無理よ。身体の半分が無くなってしまったも同然なんだから……」
結局は寂しさと愛しさが募るだけ。私はベッドの上で壁にもたれて体育座りをし、すすり泣いてばかりいた。