喩えその時が来たとしても
「ほんとゴメン。ちょっと驚かそうと思っただけだったんだけど……」
渕さんは腰を折って心配そうに私を覗き込んでいる。
『嗚呼、そんなに近付かないで……渕さんの香りで胸が満たされてしまう……』
私はその時、大変なことに気付いてしまった。
もしかしたら私、渕さんのことも好きなんじゃないかしら、と……哲也のことは勿論大好きに決まってるけど、渕さんのことは、それとは別の気持ちなんじゃないかしら、と!
この香水の匂いも、いつも身だしなみをキチンと整えている清潔感も、逞しい筋肉なのに細身の長身、いわゆる細マッチョなとこも、顔は濃いめで彫りが深いし、肌は銅アカガネ色にコンガリ焼けてるし、金髪で、ちょっとウェーブが掛かったショートヘアはセクシーだし、見た目ではさして特徴らしきものを挙げられない哲也とは対極をなしている。
「な、ごめんよめぐみちゃん」
そして外せないのが、渋くて深みが有って太いこの声。哲也のセクシーボイスとは種類が違うけど、でもこちらも子宮にズンズン響く悪逆無道ボイス。
この声を耳元で、熱い息を吹き掛けられながら囁かれたら、一体私はどうなっちゃうんだろう……。
思えば小学生の初恋の時でさえ、ススム君とトオル君の両方を同時に好きになってた。恋愛の原体験からがそんな調子なんだから、一人に一途でいられないのも仕方ないのかも。
理路整然と人の道を説く哲也に惹かれ、そして恋に堕ち、「林檎を食べてごらん」と囁く渕さんに心乱され、そして惑わされる。
でもでも、まだ身体を許したわけじゃない。こんなに泉は溢れていても、渕さんを私に招き入れたわけじゃない。まだまだ哲也を裏切ってはいない。
「本当に大丈夫ですから……ティッシュ有り難うございました」
私はこれ以上深みにはまらない為にも、頭を下げて早々に立ち去ろうとした。
でも。
「めぐみちゃん。俺、見てられないんだよ」
また素早く私の前にたちはだかった渕さんに、今度は優しく抱き竦められて、私の足は、もう、力が抜けて……。
「渕さん駄目、違うの。私が……私がいけないの」
私の目からは泣くつもりもないのに、後から後から涙が溢れてくる。こんな姿を見せてしまったら、渕さんに弱味を見られてしまったら、付け入る隙を彼にみすみす与えるようなものだけど……私の中のもう一人の私は、彼から付け入れられたいと望んでいる。彼の昂りを受け止めたいと求めている?