喩えその時が来たとしても
ああ駄目、嗚呼ダメ。
気をしっかり持たなきゃいけないわっ!
私はもう一人の私へ必死にブレーキを掛ける。ここで欲情に任せて流されてしまったら、後で必ず後悔する。私の中の私に従ってしまったら、絶対取り返しのつかないことになる。
私を抱き締めている渕さんの固いものの感触が、服の上からでも解った。鼻にティッシュを詰めた間抜け面の私でも、彼を欲情させることが出来るんだ。と、妙な自信が湧いてくる。
「白状するとさ、この前はめぐみちゃんの身体だけが目当てだった。でも今は違う。それも含めてだけど、君の全部が欲しいんだ。身体だけじゃない。心も全て、岡崎からめぐみちゃんを奪いたいんだ」
その言葉通り、渕さんはただ私を抱き締めるだけでスケベなことはしてこない。前の彼だったら当たり前のように色々してくる筈だから、彼が私のことを慈しんでくれているのが解る。
正直私は嬉しかった。モロワルなルックスそのまま、女を性の道具としか見ていないかのような彼が、私に気持ちをぶつけてきてくれたから。私を一人の女性として、いとおしむ存在として求めてくれたから。
でもいけない。
どんなに泉が溢れたとしても、それがすなわち彼との恋愛許可証じゃない。
渕さんのことはそうよ、只のギャップ萌えなんだわ。DV夫から暴力を振るわれた後に、優しく抱き締められたのと一緒よ。
だから流されてはいけないの。私の半身は今、暗澹冥濛アンタンメイモウの渦中、絶体絶命の危機に瀕しているのだから。
小学校時代の、ままごとみたいな、お気楽極楽な恋愛とは違うのだから。
「ね、お願い。放して下さい。渕さんの気持ちには応えられないの」
私は少し強めの力で彼の身体を引き剥がし、ペコリと頭を下げて駅へと歩き出した。
「だがなぁ、めぐみちゃん。俺は絶対、諦めないからなっ!」
渕さんはしつこく追い縋ったりすることもなく、でもハッキリとそう宣言した。
こんな不埒な私の、身体以外のどこに魅力が有るのか考えても答えは出なかったけれど、渕さんから離れたのは正解だ。一緒に居ては、いつまた気持ちが傾いてしまうか解らない。
そんな心のモヤモヤをかなぐり捨てる意味も有って、現場最寄り駅の階段を勢い良く駆け上がる。
「ああっ!」
歩数を読み違え、一番上の段を踏み外しそうになって慌てたけど、まだラッシュ前だったから人影は疎らで、誰にも見られずに済んだ。