喩えその時が来たとしても

「良かった。倉科さんが薄毛で良かった。あそこで酔いが醒めて本当に良かった」

 呪文のように繰り返しながら、私は家路を急いだ。寒くもないのに縮こまりながら、自分の身をしっかり抱き締めるようにして速足で歩いた。

 自ら蒔いた種だとはいえ、良く知りもしないおじさんからこの身体をいいように弄ばれてしまう所だった。もうすぐ死んでしまうかも知れないパートナーを裏切って、あんなことやこんなことを繰り広げる所だった。

 哲也が浮気をしたという確証もなしに、報復の裏切りを働こうとしていた愚かな私。ただ、放置されていることへの不満が募っただけなのに、決定的な過ちを犯す所だった馬鹿な私。

 もし倉科さんとそうなったとしても、今哲也と私は二人きりで逢うことも出来ないのだから、その事実を言いさえしなければ彼には解らなかっただろうと思う。バレなかっただろうと思う。だけど、それから先、彼の瞳をどんな目をして見ればいいかは解らない。一生真っ直ぐには見ることが出来ないかも知れない。だから、過ちを犯してしまう前に気が付いて本当に良かった。

「ごめんなさい、哲也……」

 そう言って謝った途端、私のスマホがポヨンと鳴った。哲也からだった。絶妙なシンクロニシティー、恐ろしいほどのタイミングだった。

『めぐ、元気にしているか? 逢いたくて堪らない』

 それは素っ気ない文章だったけど、無料通信アプリだから文字数も限られているし仕方ない。でも、哲也が私を思う気持ちと、彼の今現在置かれている孤独な環境が痛いほどに伝わってくる内容だった。そのメッセージに触れた私の中から、間欠泉のように熱い物が噴き出してきた。

「本当に……本当にごめんなさい」

 私は号泣しながら同じ言葉を彼に返信していた。すぐさまポヨンとリターンが返ってくる。

『どうした? 何か有ったのか?』

「ううん、何でもないの。ただ私……オバサンいえ、牧村さんとのことにヤキモチを妬いちゃったみたいで……」

 何とか言葉を返すとまたポヨン。

『馬鹿言うな! 彼女には相談に乗って貰ってるだけだ。彼女は恐らく強運の持ち主だから、俺の悪運には影響されないんだと言っていた。海外旅行先で色々』

 ポヨン。

『旅先で色々呪術めいた物にも触れて来たから、参考になる事が有るかも知れないと言ってくれて、話を聞かせて貰っていただけ』

 ポヨン。

『貰っていただけだ。めぐに対して裏切りになるような事はしていない!』

 そうよね、それなのに私は……やっぱり最低女だ。


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