喩えその時が来たとしても
 
「……ただいまぁ……」

 その後は周囲に細心の注意を払い、何とか何事も無く帰宅した。家の明かりは消えていて、人が起きている気配もない。ソロソロと台所へ進むと、

「ウワァァァアアッ!」

 いきなり生暖かい物体が足に当たり、俺は叫び声を上げていた。

『何だ哲也、でけえ声出しやがって、ビックリすんじゃねえかこの野郎!』

 ああ、兄貴だった。この家にペットショップから連れて帰ってきたのをすっかり忘れていた。

「何ですか、うるさいわよ!……」

 奥の床の間からヒソヒソ声で母がたしなめる。

「ああゴメン母さん。暗闇で兄貴にぶつかって驚いただけだから、お休み……痛ッ」

 申し訳なくて頭を掻いたら、爪に烏から突つかれたコブが引っ掛かった。頭はでこぼこだらけになってはいたが、血までは出ていなかった。

『お前が帰って来たから色々報告しようと思ったら、いきなり叫ぶんだからよお』

 ピョコピョコと拙い足取りで少し歩き、大あくびをする兄貴。言葉の汚さと仕草の愛らしさが釣り合わない。

「そりゃ誰だって叫ぶよ。真っ暗な中で生暖かい何かが足に当たってきたら!」

 兄貴の事を忘れていたのは言わずにおいておく。

『お袋にやっと説明し終わったと思ったらオヤジが帰って来て、また最初から説明させられるし……ホント疲れたぜ』

「ああ悪かったよ兄貴。俺が説明するより兄貴から直接言って貰った方が説得力有ると思ったから……」

 まだ犬の体に慣れていないだろう兄貴には苦労を掛けたようだが、どうやら両親共に事情を理解してくれたみたいだ。

「俺は俺で収穫が有ったんだけど、兄貴もお疲れだろうから明日にするよ」

 しおりさんとの事はまたでいい。明日からは兄貴と二人三脚で、いやひとりと一匹……何脚だ? まあとにかく、一緒に力を合わせてやっていける。

『そうだな。この体は仔犬だし、余り無理は利かないみたいだから寝るとするか』

 そう言うが早いか、ねそべっていた兄貴からは寝息が聞こえてきた。転生初日から随分と無理をさせてしまった。その間俺はと言えば、妙齢のご婦人からご馳走を頂いていたなんて……問題解決の為だったとはいえ、そのひとときを楽しんでいなかったと言えば嘘になる。

「お休み兄貴」

 寝冷えをしないようにタオルケットを掛けてやるが、俺の胸は罪悪感でチリチリと焦げ付くような痛みに襲われていた。


< 166 / 194 >

この作品をシェア

pagetop