喩えその時が来たとしても
『そうか解った。要するに、余計な口は出すなって事だな。ああそうかそうか、解ったよ』
ヤバイヤバイヤバイ! 兄貴の堪忍袋の緒が切れた!
見た目は仔犬なのでその表情は解らないが、この語調はかなりトサカに来ているに違いない。
そう、いつも兄貴は俺の為に尽力を惜しまないでいてくれる。まるで細かい事等は気にしない……ように見える。だが実は恐ろしい程の記憶力で、その些事のひとつひとつを無意識下の堪忍袋に蓄積しているのだ。俺が二流の大学に漸く滑り込んだのは家系の特色でもあるこの記憶力のお陰に他ならないが、兄貴のそれは親類縁者の中でも断トツで、大学進学をしなかった兄貴は「何故上に上がらないのだ」と親戚に責められていた位だ。そうやって堪忍袋に蓄積された兄貴の俺に対する不満は、その緒が切れた途端、明確な記憶となって甦る。
『大体お前はな、買ってきたばかりの、まだほんの子供でしかないハムスターの俺をいいように弄り回すようなひでえ野郎だ! しかも飼い方の研究も何ひとつしやがらねえお前は、最初の一ヶ月間、俺に全然菜っ葉を寄越さなかった。お陰で野菜不足になった俺は、フラフラで死にそうだったんだぞ! それからやっと……』
こうして、兄貴がハムスターだった二年と少しの間に感じた不満のあれこれを延々と話して聞かされた俺は、項垂れたままその一部始終、一言一句を肯定し、謝り続けるしかなかった。もし少しでも反抗して、これ以上機嫌を損ねてしまうと、かなりの期間兄貴からの『シカト攻撃』に耐えなければならなくなる。だが俺には時間が無い。そんな状態に甘んじている余裕はこれっぽっちも無いのだ。
「ごめん兄貴、俺が悪かったよ」
高かった陽もとっぷり暮れて、外が真っ暗になって漸く兄貴の話は終わった。
『……という訳だ哲也。何か反論が有れば聞いてやる』
「反論なんか無いよ。本当に俺が悪かった、ゴメン。俺の為に色々考えてくれているのに感謝の気持ちが足りなかったよ、有り難う」
深々と頭を下げて顔を上げると、海老茶色の仔犬は寝そべって寝息を立てていた。
「なんだよ、言いたい事言った途端にご就寝かよ。調子狂うなぁ」
そんな兄貴は高校卒業後、陶芸家の道を進むべく九谷焼の高名な作家の元に弟子入り。そして修行の末に独立し、ぽつりぽつりと色々な賞に名前が出る程になった。
それから漸く陶芸家として食っていけるようになったそんな矢先、例の事故で生命を断たれたのだ。