喩えその時が来たとしても
「さあさあ、弱音ばっかり吐いてても工期が増えるわけじゃない。俺達は最善を尽くすより他に手はないからな。イッチョ頑張るか」
「はいっ!」
失礼な例えだが、馬場めぐみは訓練が行き届いた従順な犬のように俺に付き従う。俺が会社の先輩じゃなかったら、こんな可愛い子とは話をするどころか何の接点も無かったに違いないのに。俺みたいなごく普通の、集団に紛れてしまったら存在すら希薄になってしまう輩が、こうして彼女を引き連れているのは誇らしくもあり、しかし私生活に於いては全く何一つとして彼女と交わっていない俺がこうしている事には気後れも感じている。
「このフロアはバラシが完了してるから、各部のチェックをして回ろうか」
コンクリートが固まった後に木枠を外すのを『型枠バラシ』と言うが、枠にしている材料が木なだけに、コンクリートの部分に張り付いてしまったり、欠片が食い込んだまま取れなくなってしまったり、コンクリートを流し込んだ時に枠自体がずれて、本来の形にならなかったりもする。その部分を補修する為にピックアップするのも俺達の仕事だ。
「先輩、ここは仕上げで隠れる部分ですけど、どうします?」
将来的にはここにユニットバスが据わる予定になっている。結果的には見えなくなってしまう部分だが、隅々迄きちんと作り込むのがここの監理・設計の方針だ。
「ああ、今の内に補修出来る所はなるべくやっておこう。チェックが終わったら、ハツリ屋さんに渡す分と左官屋さんに渡す分の図面を焼いておいてくれな」
「はい、解りました!」
明るく輝くその笑顔が現場を照らす。ハッキリ言ってウチ程度の三流ゼネコンでは、仮設照明に充分な予算を割り当ててはいられない。だからそうだ、室内では昼間でもヘッドライトを点けていなければ仕事にならないのだ。そんな現場に心も暗くなりがちだったみんなだが、馬場めぐみの眩しい笑顔が原動力となって、俄然やる気が起きるのだ。……それは俺の贔屓目がそう思わせているんじゃない……筈だ。
だが、それをあからさまに伝えて彼女が心象を悪くしたら……職場を嫌いになってしまったら……ましてやパワハラやセクハラだと思われてしまったら……馬場めぐみが職場を去る、すなわちみんなのやる気を削ぐ事にもなり兼ねない。
「そんなのきれいごとさ」
思わず口を突いて出た呟きは現場の騒音が掻き消してくれた。なんだかんだ理由を付けているが、結局俺が彼女と離れたくないのだ。