喩えその時が来たとしても
その後は私の心配をよそに、何もなく平穏な時が過ぎて行った。猿渡さんが言ってたように、二人は全く仕事の邪魔をすることなく、現場を順序よく見回ってた。朝の一悶着も私の気の所為かと思うほど、猿渡さんは懇切丁寧にフジハラさんの面倒を見てたの。
「馬場ちゃん、あいつらどうだい?」
その時、大沼所長が後ろから忍び寄っていきなり声を掛けてきたので、私はキャッと叫び声を上げてしまった。
するとどこからともなくタタタと足音がして、いい匂いの風が過ぎて行ったと思った途端、渕さんが所長に喰って掛かっていたの。
「おいおい所長さん。セクハラは問題なんじゃないんすかぁ?」
渕さんは喧嘩腰ではなかったけど、その声は低く、太く、迫力満点のバリトンヴォイスだった。
「違うの渕さん、私……」
「そうだよ渕くん。セクハラじゃ……」
「そりゃめぐみちゃんは逆らえないよな。所長と一介の監督じゃ、立場が違い過ぎる。これはパワハラの一面も有るんじゃないですか?」
「いや、だから……違うんだって渕くん……」
渕さんの勢いに押されて所長もタジタジだ。
でも私は嬉しかった。渕さんが私を守ってくれようとしてる。私の声を聞き付けて、自分の立場も考えないで、所長に意見してくれてる。
「渕さん、本当に違うの。所長は何も悪くないの。私が勝手に叫んじゃっただけで、どこも触られたりもしてないから」
だけど私はその場から渕さんを遠ざけるために、両手でぐいぐいと彼を押した。「でも有り難う、嬉しかった」と囁きながら。
「そっか。それなら良かった。だが気を付けろよ、めぐみちゃんは只でさえ狙われ易いんだから」
そう言うと渕さんは「所長さんスンマセーン」と、軽い感じで頭を下げて去って行った。大沼所長はと言えば「俺がセクハラなんかする訳無いじゃんか、なぁ馬場ちゃん」とか言ってバツが悪そうにしてた。
私は渕さんへ大沼所長の怒りが向かないように、話題を変えることを試みる。
「そうそう、フジハラさんと猿渡さんでしたね、所長」
「おお、そうだよ。馬場ちゃんから見てどうだい?」
私はホッと胸を撫で下ろした。また私絡みで彼が出入り禁止になったら、渕さんに顔向け出来ない。お詫びにこの身体を捧げなければいけなくなる。
すると私の妄想世界の中に、優しく渕さんの腕が入り込んできた。心なしか、あのいい匂いも漂っているみたい。私は膝の力が抜け、思わずしゃがみ込んでしまった。