喩えその時が来たとしても
「馬場ちゃん、どうした」
「ああ、すみません。貧血みたいで……」
泉が溢れちゃって大変なんです、とは口が裂けても言えない。
「大丈夫か? あ、支店長から電話だ。馬場ちゃんゴメン。気分が悪かったら事務所で休んでろよな、はいもしもし……そうです。あの件で……」
大沼所長は頭をペコペコ下げながら電話に出ると、話しながらそのままどこかへ行ってしまった。渕さんの件ももう気にしてないみたい。
「はぁ、危ない所だった」
「何が危ない所だったんだい?」
私がため息をつきながら立ち上がると、甘いソフトヴォイスに突然伺いを立てられた。危ない所は渕さんと泉のダブルミーニングだったんだけど、そんな事よりも、その声が身体に電流を走らせたことが私をうろたえさせた。でも……。
「ああ、フジハラさん」
私は何事も無かったように振り返って、フジハラさんに笑顔を向けた。そしたらモジャモジャとヒゲが生えている、熊さんみたいな顔がパッと輝いた。
「お? 覚えてくれたんだね」
「ええ。私に仕事を教えてくれた先輩が、いの一番に覚えなきゃいけないのは名前と顔だよって」
勿論猿渡さんの顔も覚えているわ。今日新規で入って来た職人さん3人の顔だって。
「なるほど。でも凄いね……って、ああいけない。馬場さんは先輩社員だった」
熊さんは、いいえフジハラさんはそう言って頭を掻いているけど、年齢は私より上なんだから気にしなくてもいいのに……。
でもフジハラさんは更に続けた。
「猿渡さんにも言われたんです。お前はこの現場で一番下っ端なんだから……って」
そのあくまでもソフトな声質は、ヒゲとは全くそぐわなかったけど、よく見てみるとウェーブの掛かった長めの髪はオシャレな赤茶色だし、四角いベッコウ縁の眼鏡の奥にある目は二重が深くて凄く可愛い。
「でもフジハラさん、敬語はダメです。堅苦しいので」
私は妄想世界に引き摺り込まれそうになる自分を必死で制しながら会話を繋いだ。
「ははは。馬場先輩がそうおっしゃるなら、その通りにするよ」
「そうして下さい。でもフジハラさんも私の名前をすぐに覚えてくれましたよね」
「ああ、この現場の名簿は写真付きだからね。まず職員と職長会から覚えたよ。一般の職人さんはその後でね」
え? 名簿だけで覚えたの? いつ?
「東大に入れたのはこの記憶力のお陰だし」
何とフジハラさんは、ハイエストインテリジェンスの更に上を行く、トップオブ・ザ・インテリジェンスの人だった。