喩えその時が来たとしても
「わ、私なんかでいいんですか?」
何故かへりくだった返答をしてしまう私。きっと、本能に潜むマゾヒストの私が口を挟んでしまったんだと思うの。
「勿論だよ。『初心忘るるべからず』と口では言っても、諸先輩方は世間の荒波に揉まれ過ぎている。仕事に対する純粋さには些か欠けているんだ。それに引きかえ馬場さんは、まだ無垢なままだ。俺はそんな君にこそ相談に乗って欲しい」
眼鏡の奥から優しい瞳で見詰められ、綿菓子のように柔らかで甘い声音を注がれた私の泉は、いとも容易く決壊していた。
「わ、解りました。ではまた後で」
仕事に対しては無垢なままでも、ことさらエッチなことに関しては、心にコールタールのような黒い、粘度の高い邪ヨコシマな感情がふつふつと湧いている私は、哲也と会えないのをいいことに、束の間のアバンチュールを味わおうとしている、ふしだらな牝猫。
太ももをふた筋、三筋と流れていく淫らなしたたりは、純真無垢とは程遠い私の思惑を映してるみたい。
「でもでも、私は仕事の相談に乗るだけだもの」
そう自分に言い聞かせるように何度も呟いて、ズンズンとわざと足音を立てながら歩く私。
フジハラさんは研修期間が終わればこの現場を去る人間なのだし、後腐れもないはず。私さえ口をつぐんでいれば哲也に知れるはずもない。
ダメダメ、それじゃあまるで最初から浮気をする気満々じゃないの! 私は仕事の先輩としてフジハラさんにアドバイスをしてあげるだけ。そしてそのご褒美に私を享楽の坩堝ルツボへと落として貰う、ただそれだけのこと。
違う違う。
ご褒美のくだりは無しよ!
そんな自問自答に振り回されていると突然。イイ匂いにラッピングされた、渋くて太い悪逆無道ボイスが……。
「どうしためぐみちゃん。ご褒美無しって」
アア、ああ、嗚呼。
ダメダメダメ、駄目よ!
泉が決壊したままで渕さんとまともに対峙したら、私が彼を拐ってホテルに駆け込んでしまうわ。「ご褒美を頂戴」って懇願してしまうわっ!
「いえ、ちょっと……じ、自分に課した仕事をやり損ねただけです」
「そっか。あんまり根コンを詰めるなよ。それとな」
渕さんは真剣な表情をして私に顔を近付ける。そしてあろうことか、彼は私に「壁ドン」を仕掛けてきた。
「ふ、渕さんダメ……」
やっと絞り出した抵抗の言葉も、蚊の飛ぶ音より小さくしか響かなかった。