喩えその時が来たとしても
 
 でも、でもでも……。

 私には越えなきゃならないもうひとつのハードルが有った。

 それはかなりの難易度を伴う、フジハラハードル。あの渕さんが「気を付けろ」なんて言うからには、フジハラさんは女好きのスキルを相当なレベルで取得してるに違いないのだから。例えてみれば、カラオケ好きな人は自分よりだいぶ実力が勝ってないとその人を『上手』だと評価出来ないと言われてる。自分基準で考えると、かなり自分に対しての評価は甘くなるってこと。そしてその法則から言えば、フジハラさんの居る位置は渕さんの上の上。マエストロ級の高みである確率が高いはず。

 今日は現場の問題が何も無かったので、終業時間は定時になる。自分の蒔いた種だから、誰を責めるわけにもいかないのだけれど、あと30分もしたら、その女たらしの巨匠と食事をしなければいけない。

 こんな時、哲也が同じ職場に居てくれさえすれば、なんの問題も無いのに、「めぐ、大好きだよ」って言ってくれさえすれば私の目が他に移ろうはずも無いのに……。

「哲也……」

 私はそうして声が届くはずもない人の名前を呼んでいた。

「お待たせ。何か食べたい物はないかい?」

 でもフジハラさんの、その優しい声に包まれて、また私は甘美な背徳の世界へと逆戻り。私の中の牝が、ふしだらな淫売が「どうぞ私を好きなようになさって」と、彼を欲しがってる。

「もし嫌いじゃなかったら、変わった食べ方をさせてくれる美味しい焼肉屋が有るんだけど、どうかな」

 若い女の子は大抵焼き肉好きと相場は決まってる。しかも焼き肉デートの後にそのカップルが辿るのは八割方ホテル行きだ。やはりフジハラさんは私に照準を絞ってきている。

「焼き肉は好きですけど……」

「それじゃ決まりね、じゃあ行こうか」

「は、はい」

 嗚呼、私ったらすっかりフジハラさんのペースに嵌められてしまってる。そして私はていよくフジハラさんから填められてしまうんだわ、いいように食(ハ)められてしまうんだわっ!

 そんな私の心の呟きを置き去りにして、フジハラさんはスタスタと駅へと向かう。

 電車で行くのならハブステーションのあの駅かしら。あそこなら比較的リーズナブルなお店も多いから、私のお財布も傷まないし……。私の身体の魅力にやられてしまったらイヤでもお財布のヒモが緩むだろうけど、ヤッパリ最初は割り勘だものね……。


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