喩えその時が来たとしても
「俺の事を心配してくれていたんだよな、そして寂しい思いをさせてしまった。本当に申し訳ない」
また何かを畳み掛ける準備をしていたのだろう彼女の口元は、モゴモゴと所在なさ気に尖った。
これはこれで堪らなくキュートな表情ではあったが、ゆっくり堪能している余裕など勿論有る訳がない。油断せず、彼女を巧く誘導しなければ。
「そ、そうよ。私……寂しかったんだから……心配で心配で、夜も寝られなかったんだからぁっ! ウェッ、ウェッ」
顔を歪めて嗚咽する馬場めぐみを見る、その視界の端でしおりさんを窺うと、まるでマリア様のように慈愛に満ちた微笑みを湛えていた。
美しい……イヤイヤいかんイカン遺憾!
俺はそのまま見とれてしまうのを何とか思いとどまった。だがしかし! 全く違うタイプの女性に、同時に惹かれてしまう俺って一体……。
確かに、妄想彼女しか居なかった時には、何人もと同時進行していた時期が多々有った。だが、それはあくまでも妄想上の不貞。自らの興奮を高めこそすれ、誰に迷惑を掛けた訳でも悲しませたりした訳でもない。しかし今は、馬場めぐみの事を確実に傷付けている。彼女の心をざわつかせ、不安の闇に放り出してしまっている。
「めぐみさんも哲也さんも羨ましいわね。若いって本当、素晴らしいわ」
『そう、めぐみちゃんはこんなテンでだらしない弟にもゾッコンで居てくれるイイ子なんだよ』
兄が口を出す。返す言葉もない。
「えっ? 雅也さんっ?! 生き返れたんですねっ! 良かったぁぁ」
海老茶色の仔犬は馬場めぐみの胸に押し付けられるように抱き上げられて、些か苦しそうだ。
『ああ、めぐみちゃん。人間の頃だったらこの上ない幸せなんだろうけどな、犬になった俺にはちっとも嬉しくねぇんだ……ケホケホ』
「ごっ、ごめんなさい。興奮してつい力が入ってしまって……」
良いぞ兄貴! 俺への怒りが上手いこと分散されて行っている! ここはなるべくしおりさんには触れないようにして、馬場めぐみの逆鱗にこそ障らないようにしなければ!
「お陰様で兄貴もこうして転生する事が出来た。めぐにも心配掛けたけど、兄貴の声も今度は聞けるようになったし、事態はかなり好転しているんだ」
馬場めぐみの顔からはすっかり怒りの表情が失せていた。兄貴も同席しているとなれば、そうそうずっと息巻いても居られないのだろう。