喩えその時が来たとしても
 
「そ、そか。じゃあ着いて行かなくてもいいんだな」

「え、ええ。お気遣い有り難うございます」

 微笑んで頭を下げた馬場めぐみ。

 ギクシャクした空気が二人の空間を支配してしまった。しかしそれはそうと、この笑顔を文句なく独り占めに出来る人物が居ると思うと無性に腹が立つ。その怒りを覚られないように俺は会話を繋いだ。

「でさ、馬場さんはどう? 続けられそうなのかい?」

「それって今の仕事って事ですよね」

 彼女の言う好きな人とは一体どんな奴なのか、そいつが居ても俺がつけ入る隙は有るのか、なんとかしてリサーチを掛けなければならない。この先、喩え先輩と後輩の関係以上には進みようも無いという事になっても、彼女を諦める為にはそれなりの納得出来る理由が欲しい。

「先輩に良くして頂いて、ちゃんと漏らさずノウハウも教えて頂いて、仕事が楽しくなってきたところです。岡崎先輩には感謝をしても、し切れません」

 馬場めぐみはその肌よりも尚白い、きちんと綺麗に揃った、エナメル質の乗りも申し分のない歯を見せて、俺に微笑んでから頭を下げた。

 容姿が整った女子というのは、同性からのやっかみや異性からの謂われない逆恨みを躱す為、大抵が『八方美人』的な世渡り術を修得している。こと異性に関しては、その女子が好意を持っていない人物に対してでさえ、あたかも「自分は惚れられているんじゃないか」と思い込ませてしまう術だ。彼女の笑顔もそう、俺は危なくその術中に嵌まってしまう所だった。鈍牛だのなんだのと佐藤の事をとやかく言う前に、こんな普通の俺になど、彼女が惹かれる筈もないのだ。そう勝手に決め付け、意気消沈で自己完結してしまった俺は、

「それは良かった。馬場さんの成長はめざましいもんな。俺も教えてて張り合いがある」

 なんて面白味もない誉め言葉でお茶を濁す。だが考えてもみろ。何ら人に誇る所もない俺が、こんな子と一緒に働けているのだ。正直言って、楽しくて仕方ない、薔薇色の毎日なのだ。そんな幸せを、やっと巡ってきた甘美なる日々を、これ以上を求める事でぶち壊しにしてしまうなんて愚か過ぎやしないか? 太陽に近付き過ぎたイカロスは、羽根をもがれて地に墜ちるものなのだ。

「有り難うございます。教え甲斐が有るなんて嬉しい」

 ほら、眩し過ぎて正視出来ない。彼女という太陽に対して、俺にはこの先輩後輩という距離感こそがちょうど良いのだ。


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