喩えその時が来たとしても
 
 先輩がこのまま振り返ったら、確実に私の姿は見付かってしまう。もう一度トイレへ逃げ込むにも、仮設トイレのあの立て付けでは、音を立てずに中へ入るのは至難の技だ。私は固まったまま動けないでいた。けれど先輩も事務所の二階を見上げたまま、動かないで佇んでいる。

「? ……どうしたのかしら」

 もしかして私への罪悪感? 顔を合わせるのが気不味いのかしら。それとも決定的な引導を渡す為の準備をしてる? それって一体何っ? いえ、昨日は本当に急用が出来て、その経緯を説明する為の文章を組み立ててるんだ。いえいえ、私のどこが嫌いなのか、私の何がいけなかったのか、完璧な論理展開で私に納得させようと意気込んでる? ロジックは弁証法? 演繹法? でもでもでも、実は落ち込ませておいて一転「馬場、俺と付き合ってくれよ」なんて絵に描いたようなサプライズ。私を磔ハリツケにしたまま愛の銃弾で蜂の巣にするつもりなのっ?

 私の心はそんな妄想を思い浮かべる度、ジェットコースターのように坂を駆け上がったり下ったりしている。いけない、動悸がしてきた。息も上がって苦しくなってきた。

「はぁっ、はぁっ」

 こんな状態は心臓に悪いに決まってる。脳の血管にもダメージを与える事必至だ。私みたいなうら若き乙女が冴えない作業着を着たまま工事現場で突然死だなんて……剰りに切ないでしょう。過分に悲し過ぎるでしょう。この状態を抜け出る為には、昨日の事を聞く事がまず肝心だ。

「せん……岡崎さん。お早うございます……」

 意を決した私は、先輩の背後から声を掛けた。

「おわっ! ばっ、馬場っ、ばばばばっ」

 私が頭を下げながら挨拶すると、先輩はまるで化け物にでも出会したように後退った。やはり私は完全に嫌われたのだ。何が先輩をそこまでの気持ちにさせたのかは解らないけど、これでお仕舞いなんだ。でも……。

「昨日はごめん、これ……」

 先輩は私にしわくちゃになったメモ用紙を渡して、階段を二段飛ばしで駆け上がり、事務所の入り口で振り返ると言った。

「ああ、昼一緒にどう? 考えといて」

「えっ……ええええええっ!?」

 私は何が何だか解らなくなり、慌てて手のひらのメモを見た。『先に帰ったのは、俺の度胸が無かったせいだ』と書いてある。

「先輩、これってどういう意味で……」

 見上げた先には既に先輩の姿は無かった。

 これって一体……?……?


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