喩えその時が来たとしても
 
 慌ただしく事務所へ戻る道すがら、また馬場めぐみとすれ違った。でも彼女は明後日の方を向いて歩いていて、俺には気付いていないようだ。しかしどうしたんだろう、やはり気持ちが落ち着かないのだろうか、いつもの覇気が微塵も感じられない。だが考えてもみろ。彼女にしたって今後、俺の言葉に依ってこの現場に居辛くなる可能性だってある。そういう意味で彼女も気が気じゃないのだ。しかも俺が答えを昼まで引き延ばしているのだから余計だ。

 彼女の小さな身体に、不必要かつ多大な重圧を掛けていると思うと胸が痛い。

「岡崎さん。どないしたん?」

 自然足を止めて彼女に見入っているのを楠木さんから突っ込まれた。

「あ、ああ。何でもないです」

「馬場さんに見とれてたんとちゃうんか? はははは」

 まんまと図星である。

 その後、警察に連絡し、現場検証や諸々の手続きをする。こういう場合、まず犯人が捕まる事は無いし、もし捕まったとしてもほぼ100%道具は帰って来ない。盗まれたくない道具は自己責任で、その都度家に持って帰るしか無いのだ。

 どうやら俺のラッキーは命に関してしか通用しないようである。とは言うものの、本当に俺が及ぼした幸運で人が助かっているのかどうかは非常に疑わしい所でもある。警察に提出する書類を作成しているとピリッピリッピリッと胸のピッチが鳴った。

「はい、岡崎です。……はい、もう少しで終わりますので、十分以内に顔出します」

 左官屋からだった。壁が一枚大きく孕んでいるらしい。馬場めぐみと回った時には見落としていたようだ。普通に彼女を見ればいいものを、チラチラと盗み見るような真似をしているから、使わなくていい神経を使ってそんなミスをするのだ。

「ああ、だいぶ膨らんでますね」

「塗りじゃ誤魔化しきれないからハツリ屋さんを頼むわ」

「はい。手配しておきます」

 現地で確認したが、これは仕方ない。ハツリ屋の人工ニンクは型枠大工からさっ引きだ。そしてその後も各業者さんからピリッピリと喧しくピッチで呼び付けられ、右往左往しながらそれぞれに対応し、息付く暇も無かった。忙しい時間は過ぎ去っていくのも忙しない。あれよあれよという間に昼となった。

「なんてこった! 何を言おうか全く考えてない!」

 俺は青くなった。せっかく昼まで猶予が有ったのに、その貴重な時間を全て無駄にしてしまったのだ。


< 45 / 194 >

この作品をシェア

pagetop