喩えその時が来たとしても
「さぁどうする……」
しかし考えている暇は無い。もう既に昼なのだから。俺は作業着に付いた埃を圧縮空気で吹き飛ばし、体裁を整える。剰りに汚れていたら客だとはいえ店からも嫌われる。
「あっ、デオドラントもだ」
俺は人一倍鼻が利く。良く有る洗濯物の雑菌臭が自分の身体からするのは許せない。独り暮らしだからそこは、柔軟剤を変えようが香りの添加剤を入れようが家族から文句が出る訳じゃないのでとことんまで研究出来る。今のところベストであろう除菌対策を施している作業着は臭わない自信があるが、汗や体臭は消し去る事は出来ない。微香性のデオドラントは必需品だ。
「よしっ、チェックOK!」
ヘルメットや安全帯等、安全装備がキチンと装着されているか確認する為の鏡に全身を写し出し、ヘアスタイルの乱れや服装の乱れを整えた俺は事務所の階段を登った。少し間を開けて、くぐもった声が聞こえてくる。
「あれえ? 岡崎さん。今日は弁当頼んで無いですよお?」
相変わらずノンビリと佐藤に突っ込こまれたが、もう慣れた。昼に事務所へ上がる誰もが、必ず飯に用事が有るのか? とでも問い質してやりたいのは山々だが平常心、平常心。動かざる事山の如しだ。しかし何故こいつの顔は少し嫌味な感じの『いい顔』なんだ。文句ないほどのイケメンであれば、極普通の事を言われているだけなので、癇に障る事も無いだろうに。ヤツのその面構えは、人を小馬鹿にしているとしか思えない表情なのだ。いや、あのもったりとした喋り方が嫌味に聞こえさせるのだろうか。
「ああ、今日は外で喰おうと思ってね。馬場さんは?」
「はははあ、じゃあ弁当は要りませんねえ。でも今日は月に一度のスペシャルA弁当なのにい。あ、めぐみちゃんならもうお昼に行ってる筈ですよお」
欲しい答えをすぐに得られない焦れったさも、ヤツに覚えるイライラの素なのだ。
「ああ、有り難う。じゃあ」
早々に立ち去るのが精神衛生上にも良いとの判断から、すぐ俺はその場を辞した。階段を駆け降り、事務所周辺を探すが馬場めぐみの姿は認められない。
「トイレにも居ない」
数台有る個室トイレのどれもドアが開いていて使用者は居ない。
「まだ現場に居るのか……」
三々五々現場から上がって来る職人達に聞いてみても、馬場めぐみは昼に行ったと皆口を揃えて言うばかり。
「何処に行ったんだ」
痺れを切らしてまた事務所に戻り、裏を覗き込むとそこに有る筈の真っ赤なマウンテンバイクは忽然と姿を消していた。