喩えその時が来たとしても
「岡崎ちゃんはさ、諦めなよ。俺が代わりになってやるよ、めぐみちゃん」
渕さんの渋い声と抱き締められたその心地好い圧迫感にうっとりしてしまい、私は拒む事を忘れていた。でもこんな事ではイケナイ。なんとか自分を取り戻し、渕さんの胸を押し返した。
「渕さん駄目、人に見られちゃう」
「なんだって? めぐみちゃん。人に見られなきゃいいのか? じゃあ俺の車まで行くか?」
この現場には駐車場が無いので、職人さん達はそれぞれコインパーキングや短期契約の駐車場に停めている。そこまで行けば確かに人目には付かないかも知れないけど、私には仕事が有るし……。
「駄目ですよお、渕さん。私は詰所のお掃除をしなきゃいけないんだから」
「まぁ別に、無理にとは言わねぇけどさ」
彼は少しシラケた感じで私から離れていった。でも私は渕さんの言う『気になる事』というのが耳に付いて離れない。何で彼が急に岡崎先輩を諦めろと言ったのか。もしや実は岡崎先輩と渕さんは友達で先輩が私の事について何か言っていたんじゃないか。とか、まさか先輩とどこかの男性がステディな関係だという事実を渕さんが掴んでいて、女の私が入る隙も無い。なんて……考え出したらキリがない。
「あの……」
「気が変わったか?」
また渕さんがいい匂いと共に近付いてくる。
「いえ、どうして今日は来るのが早かったのかお聞きしたくて……」
渕さんは少しふて腐れた感じで答えた。
「なんだ、岡崎ちゃんの事かよ。実はさ、俺。昨日あの居酒屋で友達と飲んでたんだ」
「えっ?」
「だからあの駅前の店さ」
昨日はノー残業デーだったから、職人さん達も早く帰ってフリーになったひとときを楽しんだに違いない。偶然出会したのがあの居酒屋だったとしても全く不思議じゃなかった。
「じゃあ岡崎先輩が何故先に帰ったかも知ってらっしゃるんですか? 先輩と何かお話されました?」
私の質問から少しの間があいて渕さんが答えた。私を口説くのに有利な状況を考えていたのかも知れない。
「正直、俺と一緒に居たのは女だったし、席を離れる訳にはいかなかったから話はしてない。でも岡崎ちゃんが頻りに首を横に振ってるのは見えたよ。きっとめぐみちゃんに嫌気が差したんじゃねえの?」
居酒屋で声を掛けてきたイケメンおじ様の倉科さん。確かあの人も同じ様な事を言っていた。
違う違う、嫌だ嫌だ、駄目駄目、無理無理。首を横に振るって事は、そんなネガティブな感情がそこに有ったって事。つまり、完全に私に目は無くなったという事でしょう。