喩えその時が来たとしても
「あ、はい。解りました……」
勘の鋭い彼女の事だ。今の発言には不自然さを覚えたに違いない。視界の端に捉えている彼女は何か言いたげに一瞬躊躇していたが、思い直したように勢いを付けて詰所を出ていった。
「危ない危ない……」
額に浮いた冷や汗を拭っていると一年後輩の佐藤嘉久ヨシヒサが現れた。
「おっ、めぐみちゃん。もう掃除まで終わらしてる。俺の出番が無いんですけど……」
中肉中背の俺と比べると遥かに大きくガッシリとしたその体型は、『極々普通コンプレックス』の俺の弱い所を地味に攻撃してくる。おまけに顔も、超は付かない迄も、イケてる方ではある。
「お前……いや、佐藤さんが来るのが遅いからじゃないのか?」
少々嫌味っぽい語調で苦言を呈しても、奴には全く通用しないのは解っている。身体が大きい分、その神経の長さが脳からの命令を遅らせるのは至極当たり前の事だろう。
「ああ、何が危ないんですか?」
ほらな。
「いや別に大した事じゃない。じゃあ今日は俺の代わりに新規入場者教育をやってくれないか? 大工さんから厨房の変更箇所の位置出しを頼まれててな」
「……はぁあああい」
間延びしたその返事にはいつも力が抜けてしまう。このタイトな工期を乗り切ろうという気概が一切感じられないのだ。いや、奴の体格からすればそれは仕方がない事だ。そうそう、こうして自分に言い聞かせていれば人間関係に破綻をきたさない。
ガタン! ドタドタ……と、詰所の上階から喧しく足音が聞こえてきた。恐らく事務所に滑り込んだ、馬場と同じ二年生監督の相馬ソウマ龍之介だろう。また今日も遅刻スレスレである。
「毎日毎日やかましい奴だな。今日もやらかさなければいいけど」
「俺より遅い奴が居るじゃないですか。あああ、めぐみちゃんと墨出しですか? いいなあ」
最近胃の辺りがジンジンして落ち着かないのはこいつらのせいに違いない。しかもこの佐藤も後から来た相馬も、馬場めぐみを虎視眈々と狙っているのだ。
「先ぱ……岡崎さん、買って来ましたよ、ミルクテ……キャッ!」
「ああごめん馬場」
慌てて詰所に降りてきた相馬と馬場めぐみが鉢合わせてぶつかっている。同期とはいえ彼女を呼び捨てし慣れている相馬が気に食わない。胃の不調に拍車をかけているのはこいつの態度のせいも有るのは確かだ。
「岡崎さん、佐藤さん、おはようございます」
俺は佐藤の時よりも更に嫌味っぽく、
「相馬さん。馬場さんを呼ぶ時にも敬称を付けないと。時間もね、もう少し早く来れないかな」
と言ってみる。