喩えその時が来たとしても
 
 次の日の事も許せないけど、あの居酒屋でだって私……イケメンおじ様から口説かれて、危うく流されそうになってたじゃない。

 先輩は人前で泣く程に私を思ってくれていたというのに、その思いを平気で踏みにじったのは私。女は子宮で考えるって言ったのはヒポクラテスだったかしら、プラトンだったかしら、きっとエロ心理学者のフロイトに決まってる。

 先輩と話したほんの数分後に、先輩の席に知らないおじ様を座らせて、軽々しく名前まで教えちゃうなんて……。子宮でしか物を考えてない証拠だわ!

「私って最低」

 バトルが続く喧騒の中で呟いたから誰にも聞かれなかったけど、仕事中に全く関係無い事で頭の中を一杯にしてる私はもっと最低だ。

「じゃあ済みません。総合打ち合わせの後個別に少し残って頂いて、最大限譲れる所をお互いでご協議願えますか? それでも調整が着かない場合はこちらでも考えますので」

 絞り出した解決策は先輩ほどではなかったけど、何とかその場を治める事が出来た。そして結局、建築金物屋さんには早出をして貰って、左官屋さんには午後になってから通行止めにして貰う事でケリが着いた。

「しかし調整は着いたが、監督する者が居ないと万が一が有ったらマズイな」

 高橋所長が言う。まず所長が早出をするとは思えないし、佐藤先輩も家が遠い。相馬はハナから信用出来ないし、何より私が言い出しっぺだ。ここは私が引き受けるのが筋だろう。

「私が出ます。家も近いので大丈夫です。あと……ガードマンさんにも早出をお願いしちゃっていいですか?」

「そうか、助かるよ。ガードマンには言っておく」

 所長が安堵の色を見せてデスクに座った。岡崎先輩と一緒に働いてきたからこそ出来た采配だった。

 何かが一度上手く転がり出すと不思議なもので、全てがその波に乗って動いていく。午後からは何の問題もなく(相馬の声が勘に障るという些事こそあれ)順調に運んだ。

「馬場さん。明日は早いんだから今日はもういいぞ?」

「はい、有り難うございます」

 所長からのご褒美だ。遠慮なく頂く事にする。

「馬場はいいよな~。優しくして貰ってサァ」

 ノイズが耳に障るけど、私は知らん振りでトートバッグを肩にからげた。

「悔しかったら早出のひとつでもしてみたら?」

 所長の手前、「いつも遅刻ギリギリなんだから!」と言うのは辛うじて飲み込んだ私は、

「お疲れ様でした~」

 と事務所を後にした。これが相馬との最後の会話になるなんて、この時には露ほども思っていなかった。


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