喩えその時が来たとしても
 
 そうだ。手をこまねいていては駄目だ。馬場めぐみが買い物に行ったと解ったなら、俺は後に追い縋って二人の心の糸を紡ぐのだ。

「ここいら辺の文房具屋は駅の向こうに一軒しか無い」

 走ればなんとか追い付けるかも知れない。所長に早飯の許可を貰い、埃にまみれた服も払わず、油の浮いた顔も洗わず、文字通り取る物も取り敢えず現場を後にした。しかし……。

「はぁっ、はぁっ」

 現場内を走る事は滅多に無いし、日頃肉体を使ってはいても、偏った筋肉ばかりに終始しているので運動に向いているとは言えない。100mも走らない内に肩で息をしている自分が居た。

「だらしないぞ哲也、愛の為だ! 根性見せろ!!」

 心臓が口から飛び出しそうだ、膝に力が入らない、足の裏が痺れている、腕の振りほど足が前に進まない、クラクラと目眩さえする。しかし……けれど前へ、もう一歩前へ!

 文房具屋へ行くには駅ビルの階段を使うより、人専用のアンダーパスを通る方が近い。自転車だったら尚更だ。ここを通れば行き違いの可能性も減る筈だ。

 しかし残念ながら馬場めぐみと行き合う事は出来なかった。俺は急いで文房具屋に行って、彼女を探した。店員に作業着を着た金髪の小さな可愛い女の子は来なかったか? と聞いてみたが、もう買い物を終えて帰ったようだ。

「畜生、遅かったか!」

 俺は来た道をフラフラしながらとって返す。あの21段変速のマウンテンバイクには敵う筈もないが、努力する事が大事なんだと自分に言い聞かせ、ヨタヨタと進む。そう言えば今日は会社に行って朝食のタイミングを逃した為、朝から何も喰ってない。昨日の夜も何を喰っただろう……。思い出せない位、まともな食事にはありつけていなかった。

「駄目だ……目が霞む……」

 ほか弁屋から、何やら旨そうな匂いが漂って来た。これは焼き肉か、野菜炒めか……もう駄目だ。目の前に弁当の幻影が飛び回り始めた。いやイカン! 弁当よりも馬場めぐみが先だ! 剰りに彼女を欲している為か、弁当屋の前で佇む馬場めぐみの幻覚まで見える。

「……こりゃかなり重症だぞ」

 俺が吐いたその言葉に、幻覚が振り向いた。

「先輩……」

 これは相当ヤバイ。幻覚が見えて幻聴が聞こえるなんて中々の末期だ、stageⅢだ! 俺は汗だくの頭をブルブル振った、犬みたいにシブキが周りに散った。

「犬じゃないんだから……」

 幻覚にしては良い突っ込みだ。いや、幻覚が突っ込むなんてヤバ過ぎる。早く弁当を注文しなければ……。


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