彼はマネージャー
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それまでは何とも思わなかった。
コンビニで買った荷物を持ってくれたことも、エレベーターで先に乗せてくれたことも、出張先で普段の仕事のことを忘れて、柚木の知らないただの二塚になってしまっているんだと思っていた。
なのに、部屋のドアを開けた瞬間、空気が一変した。
狭い部屋の中の二つのベッドが、身体をこわばらせるほど、存在感を醸し出していた。
「風呂入ろうかな。疲れた」
確かに飛行機に乗り、その後ぎっしり詰まったスケジュールを終始作り笑顔でこなし、しかも試されるような難しい世間話を繰り返していた二塚は、苦痛だったことだろう。
コンビニの弁当とビールの後はすぐに寝てしまうに違いない。
いや、それでいいんだが。
そういう流れにすることに決まっているのだから。
さすがに二塚がいくら美形だといえども、少々優しくされようとも、今更どうこう転ぶわけはない。
いつもの仕事ぶりは充分分かっているし、その根まで分かっているつもりだし。
密室で2人きりになると予想以上に緊張はするが、取り越し苦労に過ぎないに違いない。
柚木は少し座って落ち着こうと思っていたのに、バスルームからシャワーの音が聞こえ始めた途端、妙に緊張が高まった。
それをかき消すように、あえてテレビをつける。
先に食事をしようかとも思ったが、胸がつかえてそんな気になれず、カーテンを開けて外を眺めた。
よくある夜景だ。何も特別な物はない。良成と見た夜景は特別だったが、今は全然違う。ただの普通の夜景だ。
お互いシャワーを浴びるのは明日の仕事のためで、その他に何の意味もない。
二つのベッドがくっつくこともなければ、1つのベッドで2人が寝るはずもないし、ましてや肌など触れ合うはずがない。
あぁ見えて、二塚も彼女くらいいるだろうし、目をつけている女性だっているだろうし、そんなまさか、一番危ない橋とされる先輩の婚約者なんて……むしろ、迷惑だと感じているに違いない。
…………そんな心配など、とにかく不必要だ。
さあ、シャワーを浴びたら、寝よう。
本当に、何も考えず。
ガチャ……。
「お先。次、どうぞ」
って……、何でバスローブ? いや、そういうもんか……パジャマとか持って来てないだろうし……。
いや私も、持って来てないし!! そういえば、浴衣があるだろうと思ってパジャマは持って来ていない。いや、浴衣があるだろうからそれでいいんだけど……。
「お、風呂、入ってきます」
「湯、入れといたよ。俺は中入ってないから」
え、何なのその気遣い!? いつもと全く真逆なんですけど!!
いやなんか……変なんですけど……。
柚木はどこも見ずに洗面室に入るなり、疑っているわけではないが、先にバスルームの中の湯船を覗いて驚いた。
本当に、湯が入っている。
そんな気遣いする人じゃないでしょ……。
今確かにリラックスはしているのかもしれない。
けど、リラックスした方が気遣いできるってそんなまさか。
そんなまさかと思いつつも、柚木はちゃっかりその湯に浸かり、身体も丁寧に洗って備え付けの浴衣を着て風呂から出た。
洗面室から客間の音が少し聞こえたが、静かなのでニュースを見ているのかもしれない。
それよりも、もうビールで酔いつぶれて寝てたらいいのにな……。
「…………」
何で間接照明だけで、ベッドの端に腰かけて映画なんか見てるの……。
今柚木が立っている場所のすぐ傍に座っているのはいいが、角度的にテレビが見にくそうだ。
どうしたの……。
私、一体、どこに座ればいい……。
「映画、一緒に見る?」
すぐそこにいる二塚が、手を伸ばしていることに気付かなかった。
「えっ!?」
手が触れ、すぐに引っ込める。
「え……」
目が合い過ぎて、固まった。
逸らすことができなかった。
「柚木」
目の前が、二塚でいっぱいになったと同時に真っ暗になった。
掻き抱かれ、
匂いを嗅がれ、
感触を確かめられる。
その一瞬の間に、柚木は二塚に強引に全てを奪われてしまったかのような、錯覚に陥った。
いや、ただの錯覚ではない。
「勝己マネージャーのことは分かってる」
我に返らなければ、と一気に自分を現実に引き戻し、慌ててその堅い胸を押しのけて一歩下がった。
「…………」
視線を落とし、ただ、はだけかけた胸元を手で押さえた。
「し……ショックだよな……。悪い」
ベットがぎしりと沈む音がして、ようやく少し顔を上げた。
目が合い、慌てて逸らす。
「し、ショックというわけではないですけど、お、驚きはしました。……酔ってるんだと思いますけど、その……私も、少し飲んでるし」
「酔ってないよ。ビールはまだ飲んでない」
いや、ただのフォローなんですけど……。
「俺の気持ちに、気付いてた?」
「えっ……き、気持ちって……。気付くって何ですか?」
柚木はなるべく心を無に、思ったままを聞いた。
「……、そのままだよ」
そのままって……。
二塚は頬を緩ませ、1人満足したかのように俯いた。
「え、その、間違ってたらすみません。私のこと、好きなんですか? いや、違うかもしれないけど」
「ストレートに聞くなあ」
二塚はこちらを見て、心苦しそうに笑った。
「そうは言えないけど……。なんせもう他人の者だからね」
えっ、そっ……。
「う、そ……。ほんと、ですか?」
「まあね」
照れてんですか? そんな人でしたっけ??
えっと、待って……。嘘、そんな、だって……。
「でもなんかすごく冷たくなかったですか?」
カモフラージュ? のために、冷たくしてたとか?
「仕事は仕事だから。コントロールしてたつもりだけど……」
コントロールの仕方間違ってるでしょ! いやでも、好きならもうちょっと優しくしてくれても良かったんじゃ……?
「…………」
こちらを見なくなった二塚の斜め横顔を見下しながら、柚木は胸のつかえがおりるのを感じた。
あの、二塚が。
いつも「できない社員」と上から見下してきた二塚が。
まさか、好きだったなんて……。
もしかして、冷たくしてたのは、良成の存在に嫉妬していたからかもしれない。そういえば、朝送ってもらったのが見つかった時は、特に冷徹だった!!
あぁ、そういうこと……。
「……私、嫌われてるものだとはばかり思ってました」
言いながら、柚木は優越感にどっぷり浸ってその隣にゆっくり腰かけた。
今まで散々コケにされてきたんだから、少々形勢逆転してもいい。
「……まあ、意識し過ぎてたのかもしれない。仕事とプライベートを」
こんな隙だらけの顔もするんだなと、まじまじと見つめて思った。
「あぁ……、でも良かったですね。これから仕事するのが楽です。私は。嫌われてないと思うだけで」
意識して笑いかけると、二塚はそれに応えて、
「…………」
再び両腕を伸ばした。
柚木はその間に簡単にすっぽりと収まる。
「結婚するんだって、分かってる」
もちろん、それには何の反応もしないが、ただ笑みだけは浮かべながら、
「……仲直りですよ。これは。良かったんです、これで」
「…………あぁ……」
感触を確かめるように力を入れてくるので、
「痛いです」
柚木は堂々と言い放った。
「あっ、悪い」
素早く腕を離した二塚だが、再び肩に触れ、
「調子に乗っていい?」
顔を若干近づけた。
ツンと澄まし上げた柚木は、
「それって仲直りの度を越してません?」
「まあ、そうだけど、好きなんだから……」
顎を持たれ、上を向かされた。
「可愛いんだから、好きになっても仕方ない」
それまでは何とも思わなかった。
コンビニで買った荷物を持ってくれたことも、エレベーターで先に乗せてくれたことも、出張先で普段の仕事のことを忘れて、柚木の知らないただの二塚になってしまっているんだと思っていた。
なのに、部屋のドアを開けた瞬間、空気が一変した。
狭い部屋の中の二つのベッドが、身体をこわばらせるほど、存在感を醸し出していた。
「風呂入ろうかな。疲れた」
確かに飛行機に乗り、その後ぎっしり詰まったスケジュールを終始作り笑顔でこなし、しかも試されるような難しい世間話を繰り返していた二塚は、苦痛だったことだろう。
コンビニの弁当とビールの後はすぐに寝てしまうに違いない。
いや、それでいいんだが。
そういう流れにすることに決まっているのだから。
さすがに二塚がいくら美形だといえども、少々優しくされようとも、今更どうこう転ぶわけはない。
いつもの仕事ぶりは充分分かっているし、その根まで分かっているつもりだし。
密室で2人きりになると予想以上に緊張はするが、取り越し苦労に過ぎないに違いない。
柚木は少し座って落ち着こうと思っていたのに、バスルームからシャワーの音が聞こえ始めた途端、妙に緊張が高まった。
それをかき消すように、あえてテレビをつける。
先に食事をしようかとも思ったが、胸がつかえてそんな気になれず、カーテンを開けて外を眺めた。
よくある夜景だ。何も特別な物はない。良成と見た夜景は特別だったが、今は全然違う。ただの普通の夜景だ。
お互いシャワーを浴びるのは明日の仕事のためで、その他に何の意味もない。
二つのベッドがくっつくこともなければ、1つのベッドで2人が寝るはずもないし、ましてや肌など触れ合うはずがない。
あぁ見えて、二塚も彼女くらいいるだろうし、目をつけている女性だっているだろうし、そんなまさか、一番危ない橋とされる先輩の婚約者なんて……むしろ、迷惑だと感じているに違いない。
…………そんな心配など、とにかく不必要だ。
さあ、シャワーを浴びたら、寝よう。
本当に、何も考えず。
ガチャ……。
「お先。次、どうぞ」
って……、何でバスローブ? いや、そういうもんか……パジャマとか持って来てないだろうし……。
いや私も、持って来てないし!! そういえば、浴衣があるだろうと思ってパジャマは持って来ていない。いや、浴衣があるだろうからそれでいいんだけど……。
「お、風呂、入ってきます」
「湯、入れといたよ。俺は中入ってないから」
え、何なのその気遣い!? いつもと全く真逆なんですけど!!
いやなんか……変なんですけど……。
柚木はどこも見ずに洗面室に入るなり、疑っているわけではないが、先にバスルームの中の湯船を覗いて驚いた。
本当に、湯が入っている。
そんな気遣いする人じゃないでしょ……。
今確かにリラックスはしているのかもしれない。
けど、リラックスした方が気遣いできるってそんなまさか。
そんなまさかと思いつつも、柚木はちゃっかりその湯に浸かり、身体も丁寧に洗って備え付けの浴衣を着て風呂から出た。
洗面室から客間の音が少し聞こえたが、静かなのでニュースを見ているのかもしれない。
それよりも、もうビールで酔いつぶれて寝てたらいいのにな……。
「…………」
何で間接照明だけで、ベッドの端に腰かけて映画なんか見てるの……。
今柚木が立っている場所のすぐ傍に座っているのはいいが、角度的にテレビが見にくそうだ。
どうしたの……。
私、一体、どこに座ればいい……。
「映画、一緒に見る?」
すぐそこにいる二塚が、手を伸ばしていることに気付かなかった。
「えっ!?」
手が触れ、すぐに引っ込める。
「え……」
目が合い過ぎて、固まった。
逸らすことができなかった。
「柚木」
目の前が、二塚でいっぱいになったと同時に真っ暗になった。
掻き抱かれ、
匂いを嗅がれ、
感触を確かめられる。
その一瞬の間に、柚木は二塚に強引に全てを奪われてしまったかのような、錯覚に陥った。
いや、ただの錯覚ではない。
「勝己マネージャーのことは分かってる」
我に返らなければ、と一気に自分を現実に引き戻し、慌ててその堅い胸を押しのけて一歩下がった。
「…………」
視線を落とし、ただ、はだけかけた胸元を手で押さえた。
「し……ショックだよな……。悪い」
ベットがぎしりと沈む音がして、ようやく少し顔を上げた。
目が合い、慌てて逸らす。
「し、ショックというわけではないですけど、お、驚きはしました。……酔ってるんだと思いますけど、その……私も、少し飲んでるし」
「酔ってないよ。ビールはまだ飲んでない」
いや、ただのフォローなんですけど……。
「俺の気持ちに、気付いてた?」
「えっ……き、気持ちって……。気付くって何ですか?」
柚木はなるべく心を無に、思ったままを聞いた。
「……、そのままだよ」
そのままって……。
二塚は頬を緩ませ、1人満足したかのように俯いた。
「え、その、間違ってたらすみません。私のこと、好きなんですか? いや、違うかもしれないけど」
「ストレートに聞くなあ」
二塚はこちらを見て、心苦しそうに笑った。
「そうは言えないけど……。なんせもう他人の者だからね」
えっ、そっ……。
「う、そ……。ほんと、ですか?」
「まあね」
照れてんですか? そんな人でしたっけ??
えっと、待って……。嘘、そんな、だって……。
「でもなんかすごく冷たくなかったですか?」
カモフラージュ? のために、冷たくしてたとか?
「仕事は仕事だから。コントロールしてたつもりだけど……」
コントロールの仕方間違ってるでしょ! いやでも、好きならもうちょっと優しくしてくれても良かったんじゃ……?
「…………」
こちらを見なくなった二塚の斜め横顔を見下しながら、柚木は胸のつかえがおりるのを感じた。
あの、二塚が。
いつも「できない社員」と上から見下してきた二塚が。
まさか、好きだったなんて……。
もしかして、冷たくしてたのは、良成の存在に嫉妬していたからかもしれない。そういえば、朝送ってもらったのが見つかった時は、特に冷徹だった!!
あぁ、そういうこと……。
「……私、嫌われてるものだとはばかり思ってました」
言いながら、柚木は優越感にどっぷり浸ってその隣にゆっくり腰かけた。
今まで散々コケにされてきたんだから、少々形勢逆転してもいい。
「……まあ、意識し過ぎてたのかもしれない。仕事とプライベートを」
こんな隙だらけの顔もするんだなと、まじまじと見つめて思った。
「あぁ……、でも良かったですね。これから仕事するのが楽です。私は。嫌われてないと思うだけで」
意識して笑いかけると、二塚はそれに応えて、
「…………」
再び両腕を伸ばした。
柚木はその間に簡単にすっぽりと収まる。
「結婚するんだって、分かってる」
もちろん、それには何の反応もしないが、ただ笑みだけは浮かべながら、
「……仲直りですよ。これは。良かったんです、これで」
「…………あぁ……」
感触を確かめるように力を入れてくるので、
「痛いです」
柚木は堂々と言い放った。
「あっ、悪い」
素早く腕を離した二塚だが、再び肩に触れ、
「調子に乗っていい?」
顔を若干近づけた。
ツンと澄まし上げた柚木は、
「それって仲直りの度を越してません?」
「まあ、そうだけど、好きなんだから……」
顎を持たれ、上を向かされた。
「可愛いんだから、好きになっても仕方ない」